超歴史研究会

超歴史研究会のブログへようこそ! 各地を訪れ現地調査をした報告をご紹介してまいります。

超歴史とは?

「超歴史」とは・・・

正史から黙殺されている遺跡や古史古伝や文献。 そして異端とされている人物などに着目し今一度歴史を違った角度から見直そうという趣旨からの造語です。我々「超歴史研究会」は、現在入手出来る文献や資料を手がかりに各地を訪れそれら文献の信憑性を実地調査するのが主な活動となっています。このブログでは我々が各地を訪れてそこで巡り会った素晴らしい巨石遺構や現地で知り合った人々とのお話などを交えご紹介して行こうと思っています。あなたも私たちとご一緒に真理を探究する旅へ出かけましょう。

●旧超歴史研究会のミラーを以下に置きました。(一部リンク切れがあります。ご了承下さい)

旧超歴史研究会ホームページ

~筑波山信仰の源流をさぐる~ 企画講座@土浦市民博物館

2009年11月24日 | イベント紹介・報告
11月22日 現在、土浦市立博物館で開催されている企画展「古代の筑波山信仰-内海をめぐる祭祀の源流-」を拝観し、同時開催された企画講座「筑波山信仰の源流をさぐる」に参加してきた。
講師は、同館副館長 塩谷修氏 氏は、考古学と山の信仰(2003年11月刊 六一書房)で「筑波山南麓の六所神社と巨石群」を執筆されている。
実は、とある情報筋から事前に「考古学と山の信仰」~筑波山南麓の六所神社と巨石群~の文献を手に入れていた。偶然にもこの日受講した講座の講師が執筆者でもあったので、意気盛んで望んだ。
 以前当会でも幾度か訪れていた地であはあるが、この場所を考古学的な見地で考察されている事に興味を抱いた。また、巨石(磐座)にも言及され祭祀遺跡としての“巨石のあり方”に着目され、氏が実際に踏査された筑波南麓に見られる巨石群と古代の筑波祭祀について考察されている事にも新たな展開を期待していた。
前著同項の結語には「巨石の性格と里宮と関係究明が命題」と唱っていたので、期待はしていたのだが・・・。
残念ながら講座内容に関しては“巨石(磐座)”については、深く言及はされておらず紹介だけに留まっていた。

まず、プロローグとして、今回の企画展を開催するに辺り氏の持つ仮説と検証をご紹介されていた。
筑波の地は、内海(古霞ヶ浦)を中心とした独自の信仰形態が存在している。
これらを考古学見地からアプローチされ筑波山が、やはり重要なランドマークであること。「土浦」の地は、古代の信仰にとって重要なアクセスポイントであったことに触れられ考察されていた。
また、古代の山岳信仰について「三輪山と大峰山」を紹介され何れも祭祀遺跡から見られる独自の信仰を前例として掲げながらこの地にも同じような出土品から同様な信仰が派生していることに着目されていた。
この地に伝わる「常陸国風土記」の記述にも着目され古くからこの地独自の信仰形態がみらること。また「万葉集」にも「筑波山」を詠う和歌が数多く存在し当時(奈良時代)の人々が「筑波山」を慕い思っていた背景がある事も重要だと述べられた。
平安時代の当地は、神仏習合で徳一開山の霊山であり修験・行者達のメッカであったこと。そんな背景からこの地にも“巨石信仰(磐座)”祭祀の信仰が派生し近くからは、銅鏡や土器等の出土品がみつかっており祭祀道具が奉献されていた事実を紹介されていた。

次に、それらの時代背景から氏の仮説「筑波山信仰の源流」を考察されていた。
氏は、この地に伝わる特殊神事(御座替神事)や特に“巨石”に着目し具体例を紹介されながら「里宮と巨石(磐座)」の持つ重要性を述べられた。(只、講座の中で「では、なぜ巨石が重要なのか?」に対する論点が言及されておらずイマイチ消化不良気味であった。だが、前著の氏の考察の同項の中に、氏の言われる「巨石のありかたと特徴」をまとめた項目があったので、略したものを転記しておく。

①筑波山を望む好位置に存在している
②巨石の大きさ3~7mで、自然石または群集して存在している
③巨石の前面には、平場がある
④近くには、筑波山の里宮伝承を残す古社が鎮座している
⑤里宮の境内や神域内に取り込まれ、伝承を伝え信仰、祭祀面で里宮と有機的な関係である
⑥巨石とそれを取り込む神域には、筑波山中に源を発する水流が接している

確かに具体例を挙げられた里宮には、それらを裏付ける条件は備わっている。
巨石の(対象物との)位置関係と古宮との有機的な関係には、改めて他の事例でも検証する必要性があるものと思われ大変興味深い。

古墳時代 この地を統治し権力を持った被葬者は、この地で神格化され「筑波の神」の素神として崇められた。それが、筑波信仰の源流であり筑波南麓に見られる「巨石」は、神まつりの場として神域とされこれが、筑波信仰の原初的な存在と氏は、位置づけている。
また、内海(古霞ヶ浦)周囲を巡る渡航ルートは、他の地域との重要な交易ルートでもある。交易が盛んになれば、人々はこの地に移民し次第に信仰の対象を求めるようなる。
三輪山や隠岐の島などで見られる信仰と同じくこの地区にも前述の出土品から古代の信仰形態が見られる。鹿島、香取両神を祀る宮を「辺津宮」と古霞ヶ浦に浮かぶ「浮島九社」を「中津宮」そして、土浦から入り「奧津宮」の筑波山という位置づけは、人々に対し信仰のいっそうの桃源郷として神格化されこの地の信仰形態が画一されて来たと結ぶ。

以前、筑波で開催されたイワクラサミットでは、鹿島と香取との関わりを重要視し関連づけを言及していたが、今回の講座ではそれには、触れられていない。また最後の質疑応答の時間で参加者から鹿島~香取と「息栖神社」の存在を言及した質問があったが、氏曰く考古学見地から(遺物が発見されていない以上)学術的には、全く調査対象となっていない。との答えがあった。この回答には、いささか失望感は否めかった。考古学的に、遺物資料が無いものは調査対象とならない・・・。残念な回答であった。

アプローチ的には、大変興味深い内容ではあったが、我々が一番知りたい所で、少々消化不良気味であった事は否めなかった。講演終了後、我々がイワクラ研究をしている事を告げると「物足りなかった内容だったでしょう」と氏自らも認めていた。


企画展示室の様子

B1Fにある講座会場 定員70名だったが席はすべて埋まり盛況だったようだ。

土浦に一泊し、翌日は千葉佐倉市の歴博にて現在開催されている企画展「縄文はいつから!?-1万5千年前になにがおこったのか- 」を拝観した。
しかし期待していた割にはイマイチな展示内容で、ショボかった。


明朝ホテル最上階からみた筑波山 独立峰の筑波山は遠くからも望むことができる。図絵が数多く残され信仰の対象として、人々から敬われていたことがわかる

企画展「縄文はいつから!?@歴博(千葉県佐倉市)

この縄文人のイラストは現在の最先端の遺物に基づいて描かれたもの・・・。しかしそうかも知れないがこれはナイ・・・ Tシャツも企画されミュージアムショップで売られているのだが・・・売れてないようダw
「縄文はいつから!?」