港町のカフェテリア 『Sentimiento-Cinema』


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タンスと二人の男(1958) その2

2013-06-16 17:09:57 | シネマ

この映画を語る前にまず監督であるロマン・ポランスキーの生い立ちに触れないわけにはまいりません。

ポランスキーは1933年8月8日、パリ生まれのユダヤ系ポーランド人。
三歳の時、ポーランドに戻ったが七歳の時にナチスによって一家は収容所に送られる。
自身は出所したものの母親は収容所で死亡、何とか生き残った父とは大戦後に再会できた。
ワルシャワ蜂起などを体験し、戦乱時を転々として苦しかった少年期を過ごした。
しかし、ナチスのあとは社会主義国家ポーランドという自由を制限された息苦しい生活を余儀なくされる。
やがて映画の世界に入り、アンジェイ・ムンクやアンジェイ・ワイダに仕えて演出を学んだ。
1955年から数本の短編を手掛けるが、このうちの一本が『タンスと二人の男』である。
そして1962年、初めての長編映画『水の中のナイフ』を監督、ベネチア映画祭で一躍脚光を浴びる。
(ただ、ポーランド国内ではイデオロギーがないと厳しく批判されている。)
それを機にヨーロッパから声がかかり、ようやく社会主義国家のポーランドから脱出、真の自由を手にすることができた。
以後、『世界詐欺師物語・オランダ編』『反撥』『袋小路』『吸血鬼』『ローズマリーの赤ちゃん』などを監督。
つねに弱者の立場から人物を描く作家として活躍を続けた。
そして彼は二度と祖国の土を踏むことはなかった。

そんな作家の人生経験を理解したうえで、『タンスと二人の男』に戻ります。

映画は突然海の中からタンス(もって生まれた人生の重荷)を担いだ二人の男が現れる。
タンスにある中央の大きな鏡は自分たちのプライドのように輝いている。
二人の男は希望を抱いて祖国の土を踏む。
(二人の男はポランスキー自身と彼の父親であろう。父親役のボーダーのシャツは収容所の縦縞を連想させる)
一人の女性にかすかな希望の光を見出したものの、彼等の受け入れを冷たく拒絶する市民 たち。
あふれる暴力や犯罪そして殺人。さらには厳しい警備員(官憲)。
暴力に屈した二人のプライドは鏡とともに砕け散ってしまう。
二人は荒廃してしまった祖国に絶望し、無邪気に砂遊びをする少年のそばを振り向きもせずに通り過ぎてゆく。
(少年の作っている砂山は無数の犠牲者の墓石を連想させます)
そして二人はタンスを担いだまま海の中に消えていく。
失望と共に再び祖国を脱出したいという作者の希望的結末なのでしょうか。
ポランスキーの荒廃した祖国ポーランドから脱出したいという思いを重ねながら、ナチや社会主義国家への痛烈な皮肉を込めて静かに語った映画だと思われます。
1920年代後半における前衛映画の再来、それも抽象主義手法を彷彿とさせる一篇でした。

この映画についての私の解釈は以上なのですが、観る人によっては全く違うかもしれませんね。


タンスと二人の男(1958) その1

2013-06-14 15:24:08 | シネマ

ATGがスタートした頃には長編映画とセットで短編映画が同時上映されていました。
どの長編映画とセットだったのか失念しましたが、
1962~3年にロマン・ポランスキー監督の『タンスと二人の男』
という短編が同時上映され衝撃を受けたものです。

モノクロの画面に物語性はなく、台詞すらありません。
音声はというと、自然の音と音楽が流れているだけで、実質はサイレント映画そのものでした。
その映画の全編がYOUTUBEにアップされていて、半世紀ぶりに鑑賞することができました。
この作品を語る前に映像をご覧いただければと思います。

映画の本質は映像表現

2013-06-08 10:29:58 | シネマ

八日間にわたって長々と映画に対する自分の思いを書き綴ってみました。
一段落です。

やはり、映画の本質は映像表現です。
いかにして訴えたいこと(魂の叫び)を、台詞の力を借りずに、またはできる限り台詞を抑えて映像で表現するか。
私はこの視点で映画を観ています。
フェデリコ・フェリーニの『 8 1/2 』のラストシーンは 深いノスタルジーそして 強烈な魂の叫びそのものですね。


フェデリコ・フェリーニ監督『 8 1/2 』 YOUTUBEより


今や映画はストーリーを追いかける劇映画が本流です。
興業的に成功するためには、起承転結の筋書きドラマという制約が伴います。
しかし、ストーリーに欠ける作品であっても素晴らしい映画は多々あります。
たとえば、知的ネオリアリズムの鬼才と称されたミケランジェロ・アントニオーニの『情事』。
物語の筋はというと、無人島の見物に出かけた一行の一人の女性が突然姿を消し、一組の男女がその行方を探し回る。
ただ、それだけです。
起承 はあっても 転結 はありません。
感情を映像で表現する映画には、下手なストーリーは逆に不要なのでしょう。
表向きでは繋がっている男女も、実際は互いに隔絶し浮遊の個にすぎない、という愛の不毛を 背景の自然を利用しながら映像表現しています。
また、ラストシーンは冷ややかなカメラが二人を傍観するように冷酷に締めくくられています。
映像美学と映像表現のお手本的な作品でした。


普通に物語を追って観ている人には、行方不明になった女性がどうなったかという転結を説明してもらわないと納得できないでしょうね。

芸術映画の終焉

2013-06-07 13:07:10 | シネマ

このように、ヨーロッパの作家は芸術と興行との融合的妥協でかろうじて芸術の存在を残し、
アメリカにおける映画芸術は興行絶対主義によって押しつぶされていきました。
また、トーキーやカラーの出現が映画芸術を衰退させた最大の要因かもしれません。
トーキー(talking picture)は物語をわかりやすく進行させる最大のツールとなり、映像美学よりも劇映画が主体になっていきます。
これまでの映像による感情表現や状況説明は、ナレーションや俳優の台詞ですまされ、新たなる映像表現手法を阻害してしまいました。
カラー映像は自然美をとらえる最大のツールでありながら、モノクロの芸術的な瑞々しい陰影美を超えることができませんでした。
映画史の流れを振り返ってみれば、この時期が映画芸術の実質的な終焉であったのかもしれません。

さらに、第二次世界大戦後 自由の国であるはずのアメリカで、レッドパージのために映画人の表現の自由が奪われる時代がありました。
ハリウッドは共産主義者の温床だと告発されて多数の映画人が追放されています。

チャールズ・チャップリン監督『殺人狂時代(1946)』
(チャップリンも作風が容共的と激しく非難され、レッドパージにより国外追放された。)

1960年代の後半になると、カラーテレビの普及に押されて 世界の映画産業全体が衰退し、生き残るすべとして
娯楽化が一層激しくなり、1970年になると、映画から芸術の香りが消え、第七芸術と称された映画は消滅していくことになります。
ATGですら、1970年以降に制作された外国映画の輸入も全くと言っていいほどなくなってしまいました。
このことは、ATGが1970年に芸術的な外国映画は死滅したことを証明しているように思えます。
『1970年に芸術映画は死んだ』というのが私の結論です。
残念ながら、それ以降は真剣に映画を観る気持ちも薄れ、映画館に足を運ぶことも少なくなりました。

映画は音声を、さらには色彩をも得て、近代においてはCGによる加工や3Dなど、総合芸術として大きく羽ばたける最高の条件は整っているのですが、商業的娯楽物でしかないのが誠に残念です。


映画芸術の衰退

2013-06-06 12:03:06 | シネマ

その一方で、興行に絶対的な重きを置くハリウッドではスター主義が貫かれいました。
ダグラス・フェアバンクスやルドルフ・ヴァレンチノ主演する活劇作品は大ヒットし映画産業は活性していきました。
そんな中でもアメリカにおいても映画芸術は芽生えます。
代表は徹底したリアリズム手法の完全主義者エリッヒ・フォン・シュトロハイムでした。
彼は『愚かなる妻(1921)』『グリード'1924)』『結婚行進曲(1928)』などの傑作を残したものの、完全主義なゆえの莫大な製作費が原因で制作会社と衝突を繰り返しました。
その結果、ハリウッドは芸術よりも実益を求め、シュトロハイムは敗北します。

エリッヒ・フォン・シュトロハイム監督『愚かなる妻』

またハリウッドでも芸術で名声を得たヨーロッパの作家を招き入れるなどの動きもありました。
アメリカにおけるヨーロッパ映画界取つぶし作戦ともいわれ、優秀な欧州映画人がドルを積まれて続々とハリウッドに吸い寄せられました。
しかし、商業主義でスター主義のアメリカでは、映画の実権を握る製作者や俳優とのトラブルが絶えず、
作家の個性は押しつぶされ、芸術の芽は摘み取られていきました。
そんな中でも、商業主義と妥協しながらも芸術の香りを感じさせたジョセフ・フォン・スタンバーグやエルンスト・ルビッチなどは例外中の例外でしょう。
この作戦の最大の成果はグレタ・ガルボとマレーネ・ディートリッヒというドル箱スターを手に入れたことかもしれません。