美人の条件

 
 「華やぐ女たち―エルミタージュ美術館展」に行った。ルネサンスから新古典までの女性の肖像画がずらりと並んでいた。

 頼まれて描く肖像画なのだから、もちろんモデルは美人とは限らない。が、裕福さを反映してか、概してモデルは粗野でも下品でもない。また、醜女の肖像画というものにも出会ったことがないから、肖像画を依頼するモデルは、ある程度、貫禄などを含めて自分の容姿に自信を持つ人々だったのだろう。
 
 肖像画というものは、やはりモデルをそのまま描くのが基本らしい。多少、実物よりも美しく描くことはできても、不美人を美人に描くことはNG(多分)。 
 そこで、不美人なモデルの場合には、画家も苦心して、美しい衣装や装身具の力を借りて、モデルを引き立たせようとするらしい。
 が、私にはそれは逆効果のような気がする。衣装や装身具で引き立つものは、どう考えても、モデルの不美人さのほう。着飾った不美人と、質素な美人と、どっちが美しいか、と問われれば、私は断然、後者と答える。

 で、ずらりと並んだエルミタージュの女性たちのうち、美しかったのはわずか数人ばかりだった。ま、いいけど。

 実は私は、かなり面食い。と言っても、付き合う人間を美人に限る、という意味ではなく、美人となる合格点の基準線が高い、という意味。自分を含めて、大抵の人間を美人とは思わない。
 美人の基準というのは、人によって様々だけれど、私の場合、まず眼鼻立ちがくっきり整っているだけでなく、下品なのはダメ、白痴なのもダメ、さらに、派手なのはダメ、華美なのもダメ、豊満なのもダメ、と結構イチャモンがつく。
 ごくたまに、美人の要件を満たす人に出会ったりしても、やはり人間、理知的な中身が大前提だから、あ~、キレイな顔してるのに勿体ないな~、と思うことがしばしば。なかなか理想の美人にはお眼にかかれない。

 そう言えば、かつて私を抑圧する側にまわった女性が二人、それぞれ同じく自分の容姿を飾り立てていた。一人は世間から美人と言われていた。もう一人は決して美人と言われたことがなかった。
 で、私は思った。矯飾あるいは虚飾とは、容姿にしか自信のない人か、あるいは容姿にまったく自信のない人が、ハマるものなのだ、と。

 画像は、ゴヤ「女優アントニア・サーラテの肖像」。
  フランシスコ・デ・ゴヤ(Francisco de Goya, 1746-1828, Spanish)
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