バーチャルな人格(続)

 
 バーチャル世界で、「自分がそうありたい」と願うバーチャルな人格を作り、演じることは、自由なのかも知れない。それが、バーチャルでの醍醐味なのかも知れない。その意味で、PD(人格障害)がバーチャルを好み、インターネット中毒症となるのは、よく分かる。
 
 が、バーチャルな人格というのは、どこまで許されるものなのだろう。

 例えば、もう若くない女性が、「女性に年齢を尋ねるなんて失礼よ」とはぐらかすなら、私は別に気にならない。が、「私はハタチよ」と嘘を吐くなら、眉をひそめてしまう。
 私は、自分の言動に責任を持てなくなる時点で、バーチャルな人格は、バーチャルな人格を作らない人々にとって、迷惑になると思う。何はともあれ、人を騙すということに変わりはない。
 だから例えば、ウェブ掲示板に、好き勝手なことを散々書き散らし、あるとき突然、HNを抹消して、別の新たなHNで登場する場合。本人は、それで生まれ変わったつもりかも知れない。別人になったつもりかも知れない。が、人格というものは本来、一つしかないのだから、こうした行為は無責任としか言いようがない。

 バーチャルな人格を作るのには、多分、感覚の麻痺が伴うに違いない。一旦、度を越えてしまえば、バーチャルな人格を作らない人々は、バーチャルな人格を相手にしなくなるだろう。
 結局、現実のほうが常に豊かなのだ。

 画像は、ルフェーブル「日本風の娘」。
  ジュール・ジョゼフ・ルフェーブル(Jule Joseph Lefebvre, 1836-1911, French)

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