わたしたちの涙で雪だるまが溶けた(続々々々々々々)

 
 人間は決して自然をないがしろにしてはいけないのです。自然はそれを許しません。反対に懲罰を加えるからです。
(インガ・サドフスカヤ「子供たちみんなに願いたい」)

 ……チェルノブイリ事故を人類への最終警告であると評したのは、アメリカの科学者ゲイルである。「ニガヨモギの星」に焼かれた人にとって、それに毒された水や空気で生活せざるを得なくなった人にとって、それは既に警告ではなく、苛酷な現実になってしまっている。……
 ……ある日、テレビで原子力エネルギー研究の指導的立場の人の演説を聞いたことがある。彼はこう言った。「科学には犠牲がつきものだ、その犠牲のなかには、人間までもが含まれているのだ」と。ドストエフスキーが言ったように、赤ちゃんを殺すような人間が平気で暮らしているような社会のなかに、調和などあり得ない。この科学者は野蛮な人間だと思う。私たちは科学の虜にはならない。かと言って無知のままでいるわけでもない。人類だけではなく、すべての生命に対して関心を寄せるべきである。……
 私の祖父が話していた。……子供や孫たちは今、占領中や占領直後よりももっと恐ろしい時代に生きている。草原を走り回ることもできず、川で泳ぐこともできず、日光浴もできないと。祖父は放射能を恐れていない。「わしらは放射能を吸い、放射能を食べるさ。放射能はどこにでもあるんだ。年寄りにはどうってことはない。……だけど、お前たちはどうなるのかね」
 ……人間は、自分たちが自然の一部であると認識しないかぎり、いつでもどこでも、このようなことが起こり続ける。自然への感謝がなければ、人は自然とともに滅びるだろう。今日、まだこのことを理解できていない人がいることは、大変残念である。
(ナターリヤ・ヤスケービッチ「エコロジーの鐘が鳴る」)

  

 チェルノブイリの放射能汚染で起こったことはすべて、確実にフクシマでも起こるという。だが日本人は、ヒロシマ・ナガサキを遠い過去の出来事と思い、チェルノブイリを遠い国の出来事と思って、今度はフクシマを、どこか遠い次元、遠い将来の出来事だと思っている。
 今回の事故が価値観の転機となると言う人もいる。それにしては、価値観を転じた先に展望の持てないほどの、取り返しのつかない致命的な犠牲を伴った転機だ。真実を手に入れるために犠牲など必要ではなかった。あまりにナンセンスなことだ。

 画像は、ゴンチャロワ「踊る農民たち」。
  ナターリヤ・ゴンチャロワ(Natalia Goncharova, 1881-1962, Russian)

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