負の遺産

 
 国際情勢が緊迫化して、なんだか暗く、重い気分の毎日。経済制裁で追い詰められた北朝鮮が38度線を越えて、朝鮮戦争が再び勃発して、ソウルが火の海になって、日本も急速に右傾化して、核武装して、……というのが、相棒の読み。
 この人の読みは早すぎるので、フツーの人からは事あれ主義だと思われがちだけれど、趨勢としては、いつもこの読み通りに進んでいく。

 戦争というのは本当にやり切れない。

 人間らしい生きざまがあるのと同様に、人間らしい死にざまというのがあるはずだ。不可抗力の自然死ならつくべき諦めが、戦争や人災や殺人による死ではつかないのは、それが、人間らしい死にざまではないからだと思う。
 だから、その死にまつわる憤りや、悲しみや、苦しみには、やり場がないのだと思う。それら憤りや悲しみや苦しみの血塗られた痕は、決して消えることがない。どれだけの時間が経っても、その死の直後と同じだけの憤りや悲しみや苦しみを伴って、心のなかに甦る。時間が経つほどに、いよいよその憤りや悲しみや苦しみの度合いを強めながら、終生心のなかに生き続ける。残された個人は、そうした憤りや悲しみや苦しみを、死ぬまで負い続けなければならない。

 そして、そうした死がもし意味を持つとすれば、それは、人類総体が、そうした死があった事実を継承する場合だけだと思う。醜い汚点だと隠してしまったり、どうにも仕方のない過去だと忘れてしまったりせずに、ただ、拭えない、だが繰り返してはならない事実として、人類の続く限り記憶される場合だけだと思う。
 だから、「負の遺産」というものがあるのであって、そうした類の遺産を理解し認識するからこそ、逆に、日々の喜びや楽しみにも、意味が出てくるのだと思う。

 画像は、ブリューゲル「死の勝利」。
  ピーテル・ビリューゲル(父)(Pieter Bruegel the Elder, ca.1525-1569, Flemish)
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