天才と秀才とバカ

 
 知的環境が十分に備わった社会を前提した場合、当然ながら社会には、知を基準として、頭の良い人間と頭の悪い人間とがいる。

 頭の良い人間の基準にはいろいろあるが、私の場合、知識のある人間ではなく、知恵のある人間を指す。幅広い教養や深い知識も、あるほうがよいには違いないけれど、やはり、思考する力を持っていなければどうにもならない。
 さらに、頭の良い人間には、天才肌と秀才肌とがいる。

 「天才とは1%の霊感(inspiration)と99%の発汗(perspiration)の賜物である」という有名な言葉がある。霊感を「閃き」、発汗を「努力」と訳す向きもある。

 通例、人間は努力次第で誰もが天才に近づき得る、と解釈されがちなこの言葉、弟によればこうだ。
 ……努力なんて誰でもできる。アホでもできる。要は、1%の霊感があるかないかで、天才かどうかが決まるのだ。1%の霊感を得なければ、99%の努力をしたところで、それは徒労に終わるだけだ。
 私もそう思う。

 人の優秀さというものは、必ずしもその人の努力に比例しない。真理というものが客観的に存在する以上、努力に努力を重ねてその真理に到達しようが、霊感によって一瞬にして到達しようが、真理を獲得することに変わりはない。
 むしろ、努力が少なければ少ないほど、無駄な労力を割かない分、真理に対するセンスは曇らないで済む。
 で、努力で苦労してたどり着くのが秀才肌、霊感で楽にたどり着くのが天才肌、だと思う。……ついでに言えば、天才肌はほとんど努力しようとしないため、遊び人とは紙一重。

 さて、頭の悪い人間はと言うと、ただのバカである。

 私の父方の家系は父も含めて、人柄はともかく、知力においてはただのバカの家系だ。彼らの判断を左右するものは、因習、世評、損得、そして権威。で、優秀な人間に出くわすと、彼らはこう反駁する。
「人間の価値は、頭の良し悪しで決まるもんや、あらへん」
 そのくせ、自分たちの身内を持ち上げて、彼らは同じ口でこう自慢する。
「わての息子は、嫁は、孫は、ようできた、賢い奴やて、みんなから褒められるんや」

 ……バカにつける薬はない。げろげろげ~っ。

 画像は、ブレイク「賢い乙女と愚かな乙女」。
  ウィリアム・ブレイク(William Blake, 1757-1827, British)
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