えんじゃけん

『トランス』

松さんのお姉さん、松本紀保さんの出ている『トランス』と
いう芝居を紀伊国屋のホールに見に行きました。
全体的にいうと面白かったです。
その日、とっても疲れていたので、途中寝てしまうのではないんだろうか、
と思っていたんですけど、寝ることなく最後まで見ることができました。

舞台セットはひびの入ったコンクリートの壁に囲まれた、
そして、床面もコンクリートの板を三枚、斜めに組み合わせたものでした。
今、書いていて思ったんですけど、もしかして、
三人とも隔離されていたって意味もあるのかな、精神病院に。
でも、それは具体的すぎて面白くないので、
あのコンクリートの壁は、心の壁、自分の思考の幅の壁かなと。
人ってある程度、制限を決めて生きているものだと思うから。
けど、ぼろぼろと上から、白いものが落ちてきたり、
石ころっぽいものがバラバラと落ちてきたりするんですよね。
そして、役者たちには、白い毛(ほこり?)のようなものが服についている。
これはどう考えればいいんだろう。
どんなときにハラハラ落ちてきてたっけ?
記憶にない・・・(^^;)
多分、一人一人が心情を話しているときだったと思うけど・・・分からない。
もう一回、見てもいいかもなぁ。
今度はヤングバージョンで。(2バージョンあるらしい)

話としては、人は妄想に生きているもので、
自分を苦しめるものも自分の妄想であることが多いということ。
そして、今を生きていると実感できることは難しく、
みんなお互いに少しずつ狂っていて、正常でなくて、
でも、誰かに必要とされているという実感はあり、
それだけは本物だと確信できるという話かな。
(違ってたらごめんなさい(^^;))

これね、芝居見た感想もそうだと思うんだけど、何かを感じ、
何かを発するとき、自分の妄想の部分って含まれますよね。
その度合いによって、的外れだったりするんですけど。(私はその
可能性が大さけど・・・(^^;))
だから、芝居そのものを見ていることも実はトランス状態で、
自分の妄想(解釈、ものさし)で感じるんですよね。
でも、正確には人って常にトランス状態ではないかともいえますよね。(^^;)
自分の解釈の基準や制限をもとに、人っていろんなことを
解釈するものだと思うから。
人と同じと思っていても、絶対一人、一人ズレがあるんですよね。
それは、他人と共同生活をすればとてもよく分かること。
人によって、こんなにも感じ方が違うんだと実感します、本当に。

芝居の感想からずれるかも知れませんが。
誰かに必要とされることは、人にとって一番幸せなことなんじゃ
ないんだろうかと思います。
今の仕事になってから、必要とされていると思えることが多く、
そんなときは、幸せを感じます。
こんな自分でも生きていてよかったなぁと思えるから。
私自身もはっきり言えば異常な精神の持ち主だろうなぁと
思うところ多々ありですので、人との付き合いは苦手だったり
するんですけど、でも、それでも必要としてくれる人がいるって
いうだけで、マイナスの妄想から抜け出せます。
ちょっと、弱い考え方かも知れないけど。(^^;)

本当は人に愛されて自分の存在を実感するんじゃなく、
自分から誰かを好きになって生きていることを実感できるほうが、
生きていることに積極的(強い考え方)なんでしょうね。
でも、愛を感じずして育った場合、人を愛すことはできないと思う。
私は愛も学びから生じるものだと思うから。
だから、そんな人はまずは誰かに愛されることが必要だと思う。
そこから自分への肯定が始まり、人を自分から愛せるのだと思うから。
人を愛せる人は、自分も愛せる人だと思うから。
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