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日本最東端の島「南鳥島」と南鳥島に上陸し日本の領土とした水谷新六

2021年09月25日 06時33分36秒 | バーチャル探訪

2021年6月14日9:00~10:39にNHK BSプレミアム プレミアムカフェで放送の

「池内博之の漂流アドベンチャー3 明治冒険野郎 幻の宝島を求めて(2018年)」を

視聴しました。

番組で紹介された南鳥島に関する写真を利用して南鳥島をバーチャル訪問します。

特記していない写真は全て上述の番組からの引用です。

上の写真は南鳥島の大体の位置を示したものです。

位置は北緯24度17分12秒、 東経153度59分50秒

出典:今がわかる時代がわかる2005年度 世界地図 成美堂出版(2006)Page174-175

上の写真は桃色で日本単独の排他的経済水域(EEZ)薄いピンクは韓国との共同開発水域 

又は 日本の排他的経済水域のうち周辺国による主張と重複する水域

東端で少し離れた小さい円が南鳥島周辺のEEZ 43万㎢の面積があります。

上の写真は南鳥島の航空写真です。下側が北です。

表記していませんが三角形の各頂点には名前がつけられており下側が黒井崎(北の鼻)、

上側右が笠置崎(海賊船)、上側左が坂本崎です。

番組ではサンゴ礁が隆起してできたとの説明があった。

三角形の形状の島で1辺は約2Kmの非常に小さな島である。

上の写真は南鳥島の夕景

上の写真は日本で一番早い日の出風景

上の写真はセグロアジサシ

上の写真はサンゴで覆われた浜辺を散策する俳優の池内博之さん

上の写真はサンゴの拡大写真

上の写真はヤシが生い茂る歩道を歩く俳優の池内博之さん

 

ここでWikipediaより南鳥島の解説文と歴史について引用させていただきます。

南鳥島は、小笠原諸島の島。本州から1,800Km離れた日本の最東端として知られている。行政上は東京都小笠原村に属する。現在は一般住民はいないが海上自衛隊、気象庁、国土交通省・関東地方整備局の人員が常駐している。

日本国の島では唯一、他の島と排他的経済水域を接していない島でもある。マーカス島、マルカス島(Marcus Island)とも呼ばれる。本島とトゥイシ(注1)の間が、日本国の施政権の及ぶ領土間で最長の大圏距離を取ることができる地点である(約3,139Km)。

注1:与那国島の附属岩。与那国島西崎との距離のほうがわずかに短いが、こちらとの距離も約3,139kmである。

1543年、スペイン東洋艦隊のベルナンド・デ・ラ・トーレによる探検航海中に南鳥島が初めて発見されたとされる。1864年、ハワイのミッション船「モーニング・スター」が南鳥島を確認。記録が確かなのはこれが最初であるという。1874年にはアメリカの測量船「Tuscarora」が、フランス軍艦「Eclai-leu」が島の位置を測量している。また、1860年ごろ、アメリカ人宣教師がマーカス島と命名した。1889年、アメリカ商船「ワーレン」の船長ローズヒルが島に上陸した。この人物は後に日本との間で問題を引き起こすこととなる。

1885年、イギリス帆船「ナット」が島に打ち寄せられた際に日本人乗組員が島に上陸した。また、1886年(または1883年)には、コンシロウー商会のイギリス船「エター」から信崎常太郎(信岡常太郎とするものもある)という日本人が上陸したという。他に、静岡県の斎藤清左衛門が、島を1879年に視認し1893年には上陸したと主張している。

1896年(明治29年)12月3日に水谷新六が南鳥島を発見し、水谷は島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。翌年、水谷は島嶼発見届を提出し、島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入。東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。

上の写真はアホウドリの捕獲の風景(大沼商店発行)

アホウドリの羽は羽毛布団の原材料として欧州で人気で高値で売れた。

外貨の貴重な収入源であった。今となっては鳥獣保護の面でひどい話ではあるが・・・

上の写真は水谷新六が明治政府に提出した島嶼発見御届

明治30年(1897)に提出されています。

尖閣諸島の魚釣島の開発で知られる古賀辰四郎氏もアホウドリの捕獲を手掛けた人の一人です。

詳細は下記サイト

 古賀辰四郎氏による尖閣諸島の開拓(1884年~) | 情報ライブラリ | 笹川平和財団| 島嶼資料センター- THE SASAKAWA PEACE FOUNDATION (spf.org)

1902年(明治35年) - アメリカ人A・A・ローズヒルがアメリカ合衆国による領有権を主張して開拓を試みるが、それを察知した大日本帝国も軍艦笠置を派遣し、先に上陸して牽制した(南鳥島事件)。
この事件の際、軍艦「高千穂」に同乗していた地質調査所の技師が南鳥島の土を採取・分析。リン酸分が30%程度であったことから、南鳥島が燐鉱の国内産地として注目される。
1903年(明治36年) - 2月、水谷が東京府に「鳥糞採取願」を提出。3月に府より許可が降りる。これにより鳥糞石(グアノ)の採掘が本格化する。
最盛期には年間1,000トンのグアノを採掘。島の中央部において採掘され、現場から沿岸部へ敷設されたトロッコによって運搬されて貨物船で出荷された。主な出荷先は東京の「全国肥料取次所」であった。グアノ採掘に従事する労働者は60~70人をかぞえた。大正初期の生産高は年間600トンであった。
この時期に南鳥島の事業の権利は水谷から「南鳥島合資会社」に移転。
1922年(大正11年)- グアノ事業の権利が全国肥料株式会社に移転する。
グアノ採掘はその後も続いたが、不況によるグアノや肥料の価格急落、資源枯渇などから昭和初期までにグアノ事業は終了。会社及び労働者は南鳥島から撤退した。
昭和初期 - 漁業を営む数世帯が暮らしていたという。

南鳥島の歴史(続き)

以下もWikipediaからの引用です。
1933年(昭和8年) - 全島民が撤収し、無人島になる。
1935年(昭和10年) - 大日本帝国海軍が気象観測所を開設する。
1942年(昭和17年)3月4日 - 太平洋戦争中、ウィリアム・ハルゼー中将麾下のアメリカ海軍第16任務部隊(空母エンタープライズ旗艦)により、南鳥島は東京府内で初めて空襲を受ける(日本本土への初空襲は同年4月のドーリットル空襲)。その後も1943年(昭和18年)8月31日など何度も空襲を受けた。
1943年(昭和18年)7月1日 - 東京都制施行(東京府廃止)。
1945年(昭和20年) - 連合国軍の一国であるアメリカ軍によって占領される。
1946年(昭和21年)1月26日 - 連合軍総司令部がSCAPIN-677を指令し、日本の南鳥島への施政権が停止される。
1947年(昭和22年) - 台風発生に伴う高潮で被害を受けたため、アメリカ軍が撤退して無人島となる。
1951年(昭和26年) - 日本の気象庁がアメリカ合衆国連邦政府の委託を受け、南鳥島で気象観測業務を始める。
1952年(昭和27年) - サンフランシスコ講和条約によって、正式にアメリカの施政権下に入る。
1963年(昭和38年) - 南鳥島ロランC局が完成する。これを受け、南鳥島にアメリカ沿岸警備隊が駐留し、日本の気象庁職員は撤収する。
1968年(昭和43年)6月26日 - アメリカより返還され、東京都小笠原村に属する。海上自衛隊南鳥島航空派遣隊が編成される。
1993年(平成5年) - 南鳥島ロランC局を管理していたアメリカ沿岸警備隊が撤収し、海上保安庁が管理を引き継ぐ。
2002年(平成14年)12月10日 - 国土地理院により電子基準点が設置され、日本最東端の点となる
2006年(平成18年)9月1日 - 台風12号接近により、気象観測所職員全員が一時島外避難。
2009年(平成21年)11月1日 - 環境省が鳥獣保護区に指定
2009年(平成21年)12月1日 - 南鳥島ロランC局(LORAN自体の)廃止に伴い海上保安庁職員が撤収。
2010年(平成22年)5月18日 - 南鳥島などの離島の保全を目的とした低潮線保全・拠点施設整備法案が衆議院を全会一致で通過。5月26日、参議院で全会一致で可決・成立し、一部規定を除き6月24日施行。
2011年(平成23年)3月31日 - 南鳥島港湾保全管理所の仮庁舎完成。
2012年(平成24年)6月28日 - 東京大学研究チームにより、南鳥島付近の海底でレアアースが発見される。翌年3月、鉱床の一部が高濃度であることが発見される。

 

ここからは明治29年(1896)12月3日に幻の宝島を求めて航海して偶然、南鳥島を発見

した水谷新六について話を進めていきます。

上の写真は大正4年(1915)刊、「日本少年」10(13)「無人島に二十三日間漂流」に

掲載の水谷新六の写真

 

水谷 新六は嘉永元年3月3日(新暦換算1850年4月14日)川上松蔵の次男として三重県桑名市に

生まれた。その後水谷家に養子に出され水谷姓となる。根っからの冒険好きの探検家であり、

実業家である。明治初年(1868)に東京に出て呉服屋で働き始め明治16年(1883)に

小笠原の父島に渡り雑貨商を営んだ。その後「金十字社」という会社を興しサイパン島、

トラック諸島、ポナペ島などのミクロネシアの島々との貿易を開始したと言われ、

グランパス島の探検を繰り返す中で明治29年(1896)12月3日に水谷新六が南鳥島を発見。

島でのアホウドリ捕獲事業を開始した。明治30年(1897)、水谷は島嶼発見届を提出し、

島は1898年7月24日付の東京府告第58号で南鳥島として日本の領土に編入(板垣退助が署名)、

東京府小笠原島庁所管とされた。南鳥島の借地権をめぐって水谷と斎藤清左衛門との間で

争いがあったが、同年、南鳥島は水谷に10年間貸し付けられることとなった。

水谷新六はアホウドリの羽毛の販売やグアノ(鳥の糞)の販売を手がけました。

鳥島のアホウドリ捕獲では玉置半右衛門がこれにより巨利を得たことで有名。

明治29年(1896)12月28日、小笠原母島から労働者23名を移住させ上記事業を開始しました。

明治30年(1897)6月15日、水谷は八丈島、小笠原から雇い入れた労働者を乗せて南鳥島に

到着した。労働者を下船させた後、採取していたアホウドリの羽毛を積み込んで6月30日に

出航したところ、船は岩礁に激突して大破し沈没してしまった。水谷ら乗組員は辛うじて

船に備え付けられていた伝馬船に乗り移り、島まで漕ぎつけて一命は取りとめた。

その後、救助を求めるために伝馬船(長さ6.7m、幅1.5m、深さ0.55m)で小笠原に向けて出航。

まず伝馬船を修理補強した上で帆を張り、明治30年7月10日朝、水谷ら4名はビスケット、

干し肉、干魚、飲料水、雨水を貯める樽、そして旧式のクロノメーターを伝馬船に

積み込んで出航した天候の悪化により小笠原には到着できず漂流することになります。

南鳥島から勝浦まで約1800キロメートルの伝馬船で約40日間、航行する結果となる。

後の水谷の証言によれば食料が尽き木綿製のシャツまで食べたという。

上の2枚の写真は大正5年(1916)「日本少年」11(1)『死を決して太平洋をボートで乗切る』実業之日本社

この伝馬船での約1800キロメートルの航行は快挙として各新聞に取り上げられた。

水谷新六はその後もアホウドリなどの資源を追って、沖大東島、東沙諸島、北西ハワイ諸島へと

その活躍の場を広げた。第一次世界大戦時は、南洋群島の占領を目指す日本海軍の水先案内人を務めた。

晩年はよく判っていないが死没時期は大正10年(1921)以降とされる。

上の2枚の写真は島民の墓所です。明治43年(1910)7月23日に建てられたとの銘がある。

また太平洋戦争での戦没者を慰霊するための忠魂碑も建っています。

上の2枚の写真は太平洋戦争の残骸

 

最後に俳優の池内博之さん一行を温かく迎えてくれた南鳥島で働いている人達との

別れの場面の写真を添付して筆を置きます・

 


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