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山陽電車 高砂駅 駅南地区の散策 on 2020-7-2 その4 高砂向島砲台場跡、湛保の祠

2020年07月07日 04時51分58秒 | 神戸市以外の兵庫県

表題シリーズの第4回で高砂向島砲台場跡、湛保の祠について写真紹介します。

今回の散策のガイド本として下に添付のPDF資料を片手に未訪問の場所を散策しました。

 http://www.city.takasago.lg.jp/index.cfm/19,5421,c,html/5421/20170706-135802.pdf

 

http://www.city.takasago.lg.jp/index.cfm/19%2C5421%2Cc%2Chtml/5421/20170706-135802.pdf

 

過去のシリーズ

 第1回 山陽電車 高砂駅 駅南地区の散策 on 2020-7-2 その1 藍屋町の川地蔵

 第2回 同上 その2 山陽電鉄旧高砂駅跡の石碑(石柱)

 第3回 同上 その3 旧高砂樋門跡の石碑

 

上の写真は高砂向島砲台場跡、湛保の祠の石碑 石碑は平成25年(2013)3月に設置

文章が読み辛いのでそのまま転記します。

文久3年(1863)、加古川河口に広がる中洲の向島南端に築かれた台場で、

大砲が3門据え付けられたとされる。

高砂向島台場築造以前は下流側に川口御番所、より上流側には常番所(高砂常番所)

の2個所の番所を設けて高砂江の警備にあたりました。

また文久4年(1864)には、台場の西隣に湛保(たんぽ:人造の港)が築造され、

祠には港の施設などを築いた三代目工楽松右衛門らの名前が刻まれています。

この祠は、西側対岸の南材木町にありましたが、昭和4年に移築されています。

現在も堤防の基段部分に当時の湛保の石垣が残っているのです。

 

上の写真は湛保の祠(湛保の新築碑)正面より

玉垣に多くの方の芳名が記載されています。

上の写真は湛保(人造の港)の普請者のリストで3代目の工楽松右衛門の名も

刻まれています。(右から3人目)

上の写真は祠の遠景

上の写真はGoogle Earthの地図で向島砲台場跡、湛保の祠の位置を示した。

 

高砂湊の築港について

高砂湊の築港工事は初代の工楽松右衛門(1743-1812)が文化5年(1808)閏6月

24日、高砂の川方世話役の柴屋三郎右衛門、塩屋太一郎、鍵屋源右衛門から

高砂川(堀川)の浚渫について松右衛門に協力を依頼したことに始まります。

冬になって姫路藩の命で高砂川の浚渫と湛保(人造の湊)にとりかかる事になる。

初代の事業を引き継ぎ、工楽松右衛門の2代目(1784-1850)、3代目(1814-1881)が姫路藩の
依頼を受け高砂の新田開発や港湾の修築事業を請負いその職責を全うした。

上の4枚の写真は旧工楽松右衛門邸の展示パネルで初代、2代目、3代目の松右衛門が担当した

事業を色分けして示しました。

3代目の工楽松右衛門が湛保の工事に取り掛かったのは元治元年(1864)の2月からで

完成したのは慶応3年(1867)。

港の完成で松前のニシンを積んだ北前船も入津するようになった。

明治4年(1871)には湛保内の土砂浚えを実施しています。

 

上の3枚の写真は旧工楽松右衛門邸の展示パネルで初代、2代目、3代目の松右衛門が担当した

事業を説明したものです。

2代目の工楽松右衛門は文政2年(1819)に高砂海岸に、「工楽新田」を開拓した。

上の写真も同じく旧工楽松右衛門邸の展示で「高砂湊の修築と新田開発」の説明パネル

 

 

Goo国語辞書より波戸(はと)の意味

波戸/波止(はと)とは陸から海へ細長く突き出して構築した堤。

波よけや、船舶の積み荷の上げ下ろしなどに用いる。

初代の工楽松右衛門の年譜を添付しておきます。

Wikipediaの情報に修正加筆

1743年(寛保3年) - 播州高砂(現在の兵庫県高砂市高砂町東宮町)の漁師の
            長男として生まれる。姓は宮本 
1758年(宝暦8年) - この頃兵庫に出て、佐比江町にある「御影屋」という船主のもとで
          船乗りになる。その後、兵庫の廻船問屋北風荘右衛門に知己を得て、
          その斡旋で佐比江町に店を構え、船持ち船頭として独立。
          持ち船を所有する廻船問屋として全国的に活躍
1785年(天明5年) - 木綿を使った厚手で大幅な新型帆布の織り上げに成功。
          「松右衛門帆」として全国に普及。
          のちに帆の開発で得た収益で「御影屋」を買収、当主となる。 
           
1790年(寛政2年) - 江戸幕府より択捉島有萌に船着場を建設することを命じられ着手する。
1791年(寛政3年) - この年の夏、択捉島の埠頭が竣工。2つの人工島を造成
1795年(寛政7年) -このころエトロフ島のシャナの港が完成。
1799年(寛政11年)- 高田屋嘉兵衛、エトロフ島とクナシリ島の航路を開く
1802年(享和2年) - 幕府から功績を賞され、「工楽」の姓を与えられる。
1804年(文化元年) - 箱館にドックを築造。その後、択捉開発や蝦夷地交易に使った
           函館の地所を、高田屋嘉兵衛に譲る。
1808年(文化5年) -故郷高砂の港の船の往来を容易にするため、私費で浚渫工事実施
1810年(文化7年) -高砂に居を構える、高砂港の築港完成
  高砂湊の改築工事について「ひろかずのブログ」が詳しく記述されています。

1811年(文化8年) -鞆ノ津(広島県福山市)において大波止、明神波止の修増築を行う
1812年(文化9年) - 8月21日(新暦換算1812年9月26日)死去。墓所は高砂の十輪寺、
            供養墓は神戸市兵庫区八王寺(福昌寺)にある。


 年譜などのさらに詳細は工楽松右衛門の公式サイト

 

最後に昭和32年の高砂港付近を含む鳥瞰図を添付して筆を置きます。

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