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姫路市仁豊野の和辻哲郎の生家の碑 on 2020-2-23

2020年02月24日 05時48分20秒 | 神戸市以外の兵庫県

2020年2月23日、姫路市水道資料館、日本玩具博物館をメインの訪問先として

JR西日本播但線の仁豊野(にぶの)駅に下車しました。

仁豊野駅を出たところに和辻哲郎の生家が駅から東100mにあるとの石碑を見つけ

和辻哲郎の生家の碑にたどり着いた。

上の2枚の写真が和辻哲郎の生家の碑です

表面に「春の来た日に和辻哲郎ここに生まれる」と書かれています。

上の写真は裏の碑面の文章で平成4年(1992)姫路市文化振興財団と地元自治会

が建立したことが判ります。

碑文には明治22年(1889)3月1日に父和辻瑞太郎・母まさの次男として

この地(仁豊野309番地)に生まれたこと昭和30年(1955)に文化勲章を受章したこと

昭和35年(1960)12月26日に逝去したことが記載されています。

和辻哲郎と言えば奈良の寺を巡った「古寺巡礼」(大正8年(1919)に刊行)や、

日本の思想界に影響を与えた「風土」さらに「日本精神史研究」「日本倫理思想史」

などの著作で知られ生家は昔の医院の雰囲気を残す佇まいです。

昭和63年度(1988)に「和辻哲郎文化賞」が創設され優れた著作や研究をされた

人々に贈られています。

今年の和辻哲郎文化賞のポスター掲示が近くの掲示板に張られたいたので添付

(下の写真)

朝日新聞2019-1-29電子版にこの碑の建立に関する記事が掲載されており

碑が180万円の寄付金により建立されたこと和辻哲郎は晩年の著書「自叙伝の試み」

 の中でこんこんとした清流(市川)が流れていると故郷を称え糸紡ぎや鍛冶、

 豆腐づくりなどで村人が協力して暮らす姿を克明に描いた」と紹介

Wikipediaより和辻哲郎の略歴を引用紹介させていただきます

1889年 - 兵庫県神崎郡砥堀村(とほりむら)仁豊野(にぶの)(現:姫路市仁豊野)にて誕生。
1906年 - 旧制姫路中学校(現:兵庫県立姫路西高校)卒業。
1909年 - 第一高等学校卒業。 
  同年、後藤末雄、大貫晶川、木村荘太、谷崎潤一郎、芦田均らとともに同人誌、
  第二次『新思潮』に参加、第一号に載せたのは戯曲「常盤」。
  以後も、バーナード・ショーの翻訳などをするが、次第に文学から遠ざかる。
  谷崎の才能に及ばないと感じたからといわれる。
1912年 - 東京帝国大学文科大学哲学科卒業、同大学院進学。
  ラファエル・ケーベルを尊敬し、卒論を読んでもらいたいが為に英語で執筆した。 
  静かな環境のもとで卒論に取り組むため、藤沢市(当時は高座郡藤沢町)鵠沼にあった
  後輩高瀬弥一邸の離れを借りて執筆する。卒論完成と同時に高瀬弥一の妹、照に求婚した。
 同年、高瀬照と結婚。阿部次郎との親密な交流が始まる、また安倍能成とも終生交流した。
1913年 - 紹介を得て夏目漱石の漱石山房を訪れるようになる。『ニイチェ研究』を出版。 
  漱石の『倫敦塔』に強い感銘を受けた和辻は、熱烈な敬慕の情をしたためた手紙を書き送った。
1915年 - 藤沢町鵠沼の妻・照の実家の離れに1918年まで住む。 
    この間、別の離れに安倍能成、阿部次郎も住み、交流。
    小宮豊隆・森田草平・谷崎潤一郎・芥川龍之介らの来訪を受ける。
1916年 - 漱石および岳父高瀬三郎の死。この時期、日本文化史に深い関心を寄せ始める。
1917年 - 奈良を旅行し、古寺を巡る。
1918年 - 東京市芝区に転居。
1919年 - 『古寺巡礼』を出版。
1920年 - 東洋大学講師
1921年 - 雑誌『思想』の編集に参画を始める。
1922年 - 法政大学教授
1925年 - 京都帝国大学助教授。京都市左京区に転居。
1927年 - ドイツ留学。(~1928年)
1929年 - 龍谷大学講師兼務。
1931年 - 京都帝国大学教授
1932年 - 大谷大学教授兼務、京都大学より文学博士号取得 「原始仏教の実践哲学」。
1934年 - 東京帝国大学文学部倫理学講座教授。東京市本郷区に転居。
1943年 - 宮中にてご進講、講題は「尊皇思想とその伝統」。
1945年 - 雑誌『世界』の創刊に関わる。
1949年 - 定年退官。日本学士院会員。
1950年 - 日本倫理学会を創設し会長に就任(死去まで)。
1951年 - 『鎖国』で読売文学賞。賞金は倫理学会に寄贈した。
1953年 - 『日本倫理思想史』で毎日出版文化賞
1955年 - 秋に文化勲章受章。
1958年 - 皇太子妃となる正田美智子のお妃教育の講師を務めた。
1960年 - 心筋梗塞により練馬区南町の自宅で死去。
      墓所は鎌倉市山ノ内の東慶寺。戒名は明徳院和風良哲居士。

上の写真はJR仁豊野周辺の見どころを示した地図

仁豊野公会堂の前に掲示の地図より仁豊野付近を拡大

最後にJR仁豊野駅の駅舎と和辻哲郎の生誕の地の石碑(駅前に設置)の写真を添付して

筆をおきます。

 

 

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