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菅野白華と菅野家の墓碑 in 高砂市十輪寺 on 2018-2-17

2018年09月11日 05時41分11秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年2月17日、高砂市十輪寺の墓地にある菅野白華と菅野家の墓碑の写真を
撮ってきましたので紹介します。




上の2枚の写真は菅野白華と菅野家の墓碑です。
菅野白華(1820-1870)の墓碑には「白華菅野先生之墓」と刻まれています。
菅野白華の父親である菅野松塢は菅野家之墓に納骨されていると思います。


上の写真は菅野白華の肖像
出典:申義堂の説明パネル

菅野白華は文政3年(1820)2月6日、菅野松塢(武助)の三男として高砂町今津町で生れた。
文政10年(1827)姫路仁寿山黌に学び、仁寿山黌の人々は彼を「字引」と称したという。
姫路藩は、白華が21歳の時にを江戸昌平坂学問所(昌平黌)に入らせた。
31歳で姫路藩の江戸藩邸の教官を務めます。
朱子学者であったが海防問題などにも関心を持ち有志の若者が集まったとのこと。
37歳で奥羽・蝦夷地を巡覧しのちに「北遊乗」を著しています。
安政の大獄(1858-1859)で投獄されたが、出獄後姫路藩の好古堂の副督学をつとめ
明治維新後は兵庫県の明親館の教頭をつためた後、兵庫で病死しました。
帰郷した時に申義堂で教壇に立った可能性があります。

白華の父親の菅野松塢(1773-1843)は高砂町に文化年間(1804-1817)に
設置された学問所の申義堂の初期の教授です。松塢の読みはしょうう(お)
通称 武助、名は弘祖、字は子綏(しすい)、号は眞斎
詳細は下記の説明パネルを参照してください。


上の写真は菅野松塢の肖像です。
出典:申義堂の説明パネル

菅野松塢の長男の菅野有味(1812-1857)は天保6年(1835)仁寿山校の助教授に
なっています。菅野家は学者の家系と言えます。


上の写真は菅野松塢の履歴の説明パネル  出典:申義堂の説明パネル

申義堂は、姫路藩の家老・河合道臣(寸翁)が時の藩主・酒井忠実に申し出て、
町民一般の子弟の教育を目指して北本町に設置した。


上の写真は河合寸翁に関する説明パネル
出典:申義堂の説明パネル
申義堂の創立時期はは、文化年間(1804~1818)と推定されます。
その建設および運営は高砂の岸本家の援助が大きかった。


上の写真は岸本吉兵衛の説明パネル 出典:申義堂の説明パネル

申義堂は、藩校「好古堂(こうこどう)」の支校の一つで、町民の子弟の教育場であった。
内容は、四書五経などを中心に「小学」「近思録」「春秋左氏伝」の教材が使用された。

菅野松塢の後継の教授は三浦松石、小林梧陽(利右衛門)、三谷松園、三谷茅鹿、美濃部秀芳
また、勝海舟・頼三樹三郎(らいみきさぶろう)・梁川星巌(やながわせいがん)などが
高砂に逗留中、講師として教壇たったこともあった。

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