CHIKU-CHANの神戸・岩国情報(散策とグルメ)

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旧山陽道 西国街道 太子町 鵤本陣跡 on 2018-4-18 

2018年04月21日 05時04分54秒 | 神戸市以外の兵庫県
2018年4月18日、太子町立歴史資料館の方から聞いた情報を頼りに
鵤本陣跡遺跡の石碑を目指して歩きました。

西国街道は古代には山陽道といわれ、日本の中心であった京都や奈良の都と
朝鮮半島への玄関口であった九州の大宰府とを結ぶ幹線道路として発展してきました。

鵤宿の東側の隣の宿場は姫路、西側はJR竜野駅近くの正条になります。

前置きが長くなりました早速、写真紹介していきます。


上の写真が鵤本陣跡遺跡と書かれた石碑です。
太子町新町公会堂(住所は兵庫県揖保郡太子町鵤575−1)の前にあります。




上の写真は石碑のある太子町新町公会堂のある路地の遠景と中景
浄土真宗の西光寺も目安になります。

本陣の経営は五百井氏が担い、旅籠の数は約20軒あったと伝えられています。
尚、鵤本陣は安政4年(1857)に山陽道沿い(今の鵤東本町)に移動しています。




上の2枚の写真は安政4年(1857)以降の鵤本陣の平面図とそれを基に作成
された模型(太子町立歴史資料館の展示より)


上の写真は近世の山陽道、宿場町が列挙(太子町立歴史資料館の展示より)

鵤宿は 上記のように宿場町に指定され 宿泊施設としての本陣はありました。
しかし、人や荷物を運ぶ 人足や馬を手配する問屋場がなく 前後の姫路や
正条宿・片島宿から 人馬を呼んでこなければならず機能面で問題があった。
また、本陣が 山陽道から 北側へ300mあまり 奥まった場所にあって 
便利が悪いこともあり幕末期に大名の利用が減少、徐々に 宿場町としての活気を
失っていきました。さらに本陣が築250年を越え 安政元年(1854)の地震、
安政4年(1857)7月の台風で 大破してしまったので斑鳩寺近くから 山陽道沿いに
移して再建し心機一転を図ったものの文久2年(1862)に参勤交代制度が緩和、さらに
慶応(1865~)に入ると完全に不実施となりさらに衰退していきました。


上の写真は江戸時代後期の鵤本陣宿帳 (太子町立歴史資料館の展示より)
五百井 実 氏蔵


上の写真は山陽道鵤宿に関する太子町立歴史資料館の展示遠景


上の写真は上述の展示の中の絵図(行程記 江戸時代後期 タテ28.5cm 山口県文書館 蔵)
の一部で斑鳩寺付近をピックアップしたものです。

行程記:萩藩毛利家当主が参勤交代の旅のなぐさめとした、美しい
街道絵図で、長門から品川まで、山陽道・東海道沿いの景観を描いています。藩の絵図方
有馬喜惣太が明和元年(1764)に描き始め、このあたりは文政元年(1818)頃までには
できあがっていたようです。道中の名所、川の渡り方(舟か橋か、橋ならばその長さ、
石橋か板橋か)、宿場間の人馬の賃金など、いろいろな情報が書き込まれています。

太子町立歴史資料館は平成28年2月13日から4月10日の会期で企画展 「お様ご到着 
~山陽道 鵤宿・本陣 五百井家から~」が開催され詳細な展示があったようです。

その内容を詳細に記録されているサイトがありましたのでリンクさせていただきました。
 https://blog.goo.ne.jp/1945ys4092/e/a6f6a281cd3e4cfc493de4b22377bfc7
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