夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

『明月記』を読む(7)

2013-04-24 23:11:49 | 『明月記』を読む
正治二年(1200)八月 藤原定家三十九歳。

一日 天晴る。未(ひつじ=午後二時頃を前後する二時間)の終り許(ばか)りに嵯峨を出づ。御堂に参り、礼仏の後、騎馬にて北野に参る。今日御輿迎へと云々。頗(すこぶ)る晴ると雖(いへど)も、猶閑所に於て〔廻廊東〕奉幣し、出御の間に礼し奉る。信心殊に深し。年来常に故障ありて参らず、適(たまた)ま厳重の日に拝し奉るなり。殊に以て感悦す。別して祈請申す事有れば、神輿出御之後、漸(やうや)く退出す。(下略)

記事の内容
定家はこの日、七月二十七日から行っていた嵯峨の山荘から帰京し、北野社に参詣している。
北野社は、菅原道真を祭神とする北野天満宮で、学問と諸芸の神である。


(「北野天満宮(京都)」『原色日本の美術〈第16巻〉神社と霊廟』小学館)
 
よく知られているように、菅原道真は幼少より学問や諸芸に優れ、儒家の出身でありながら異例の抜擢を受けて右大臣にまで出世した。しかし、そのことが人々の反感を買い、藤原時平の讒言と陰謀によって失脚し、昌泰四年(901)大宰権帥(だざいごんのそつ)に左降され、二年後に配所で憤死する。
道真は死後怨霊となって宮中や時平の一族に災害をもたらしたと信じられ、都のほとりの閑静な景勝地・北野に祀られるに至った。
毎年例祭が八月四日に行われるが、定家が参詣した八月一日はそれに先だって御輿を迎え入れる行事があったらしい。

定家が「信心殊に深」く、「別して祈請申す事有」りと書いているのは、学問の神として深く尊崇していた北野社に、劣勢を挽回して「正治初度百首」の作者に加えられたい旨を祈願したのであろう。詳しくは次回書くことにするが、この後鳥羽院主催の応制百首に参加できるかどうかに、御子左家の歌道家としての浮沈がかかっていただけに、定家も必死であったと思われる。

感想
この記事を書いていて、一昨年、北野天満宮を訪れたときのことを思い出してしまった。確か十月の冷たい雨の降る日に、午前中は京都市美術館に「フェルメールからのラブレター」展を観に行き、午後から北野天満宮を参詣した。

境内には修学旅行中、自由行動で来たらしき制服姿の高校生たちが何人もおり、やはり学業成就の神として今なお人々の信仰の対象となっていることを感じた。私も、教え子のために合格祈願の御札をいただいて帰ったが、教室に掲げておいたら、天神様のお陰か翌年の入試にはたくさんの生徒が合格してくれた。