夢かよふ

古典文学大好きな国語教師が、日々の悪戦苦闘ぶりと雑感を紹介しています。

月の都へ 続き

2012-11-14 23:04:35 | 日記
今日、新潮日本古典集成『竹取物語』の解説を読み、授業の前に見ておくべきだったと後悔した。

結局わかったのは、『竹取物語』はその成立年代とされる9世紀末という時代に置いてみなければ、そして物語のクライマックスである「かぐや姫の昇天」の場面だけ見ていたのでは、本質はわからないという当たり前のことだった。

あの場面で設定される八月十五夜も、実は中秋の名月を賞でるのは、当時としては海外の新しい風流として渡来したものであるという。また、浄土教信仰も、当時の貴族社会では新思潮であった。

竹取物語で月の都は、理想化された天上界であるが、そこは「物思ひ」のない世界として描かれている。それは単に苦悩や心配事がないという意味ではなく、現実世界では最も美しい感情として認められるはずの、親子の愛情さえ否定されなければならない世界であった。

「永遠の世界の純粋な理性の光に照らせば、一切の執着は迷妄であり、解脱されなければならぬ絆でしかない」。

かぐや姫がなぜ、月の都に帰ることを心から悲しみ、不老不死の薬を贈ったり、自分が帰った後も「月夜には、月を見て私を思い出してください」などと手紙に書いたり、矛盾した、ある意味では残酷にも見えることをしているのかというと、月の都がこのような場所であるからにほかならない。

また、物語の初めからずっとここまで読んできた読者であるからこそ、かぐや姫が長い時間をかけ、様々な人々と出会い関わる中で、ようやく地上の人間らしい心を培ってきたのに、ここで、その心が今までの記憶と共に失われようとすることが耐え難く悲しいことが、自分のことのように伝わってくる。

別れに際して、もう二度とは会えない相手の永生を祈ったり、いつまでも自分を忘れないでほしいと願うのは、人間として当然の感情であり、愛情表現であろう。


授業では、そのことが生徒にわかるように言えていたらよかった。「もし、君がかぐや姫として地上にやってきたとして、なさぬ仲の自分を大切に育ててくれた翁と媼や、愛情を感じていた帝と別れて月の都に帰らなければならなくなったら、そして、今までの地上の記憶が全て失われるとしたら、何を思い、何をしますか?」



  物思はぬ心を求(と)めてひさかたの月の都へ行くよしもがな

先日、この写真を撮ったときは、ふっとこんなことを考えてしまったが、今は一瞬とはいえ、そんなことを思った自分を愚かしく感じる。どんなにつらかったり、恥ずかしくて忘れたい記憶でも、涙や屈辱とともに覚えているほうがずっとよい。『竹取物語』が人間にとって根源的な問いを、文学的な感動と共に持つ、千年経っても古びない作品であることを改めて感じた。