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ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

のど自慢、7月は26日に春日部だね!

2015年04月26日 | 介護
2015.4.26
昨日はのど自慢の予選の帰りに7月に春日部で予選があることを主人に言う。
「出てもいい?」と言ったら「どうぞご自由に」とのご意見。
また挑戦しようかと…。
だって本番用に買った衣装が着て行くところがない。
てなわけで春日部は電車で15分。会場は西武の横の市民会館。
もしかしたらはがきの応募はするかも知れません。
今度は十八番の「からたちの小径」でね。
生バンドは快感になりますぞ!
何百人もの前で気持ち良く歌うのは快感になりますぞ!
予選は落ちても悔いのない私です。
始めはちょっと悔しかったけど、いい経験でした。
みなさんも恥ずかしがらずにのど自慢に挑戦してみたらいかがですか?
予選会のハラハラドキドキワクワクは楽しいですよ。
多少の下手でも心を込めて一生懸命歌えばいい。
この私の音痴でも人前で歌うことが恥ずかしくなく出来るような気がしました。
今までは新宿の「ともしび」でアルコールの力を借りて前へ出て歌いました。
それもともしびは一人では歌いません。
必ず歌いたい人が何人か出てきます。
ともしびのスタッフも一緒に歌います。
歌は楽しいですね。
さてさて今日はのど自慢の本番です。
生放送です。
私は出ませんが春日部の中学生の女の子が島津亜矢の「海鳴りの詩」を歌います。
たまたま会場の隣の席にお母さんと座っていました。
とてもシャイな女の子でした。
人見知りです。
お母さんとちょっと話をしました。
プロ歌手を目指している子です。
予選で聴いたらかなりの歌ウマ!
磨けば光る子です。
今は純朴な田舎のこのような顔をしています。
もしプロ歌手が無理なら舞妓さんになりませんか?
京都のお茶屋の女将さんを知っています。
まずは仕込さんから…。
と、いってもその子の名前も住所も知りませんがね。
私も昔、あんな純朴な素朴な中学生でした。
てなわけで、お昼は思いっきり私が予選落ちしたのど自慢、見ます!

のど自慢の予選に行って来ました!

2015年04月25日 | 介護
2015.4.25
今日は朝から主人とNHKの「のど自慢」の予選に東京の瑞穂町に行って来ました。
予選番号は179番。
受け付けを済ませて時間が来たら説明があって、予選番号順に予選が始まります。
予選は本番と同じ生バンドです。
会場には250名の出場者と応援者で一杯です。
歌が上手くない人も上手い人も歌好きな人が参加します。
本日会場でクミコさんの歌を歌った人は私を含めて7人です。
「祈り」が1名。「十年」が1名。「広い河の岸辺」が5名です。
20名ずつ舞台の上に上がって順番を待ちます。
歌うのは本番と同じ生バンドです。
今日はドキドキ感やワクワク感を味わいました。
私は自分の番が来て前に出て精一杯歌いました。
会場には250名の予選参加者と応援者が何名もいます。
私はちょっと緊張したけれど何百人の人を前にして堂々と歌いました。
結果は予選落ち!!
見事な予選落ち!!
私より他の「広い河の岸辺」を歌った人の方がはるかに上手かった!
でもいい経験しました。
生バンドで初めて大勢の前で歌いました。
もし、まぐれで合格したら明日は朝一の始発で会場入りしなければなりません!
明日は思いっきり家のテレビでクミコさんを見ます!
もう5月25日の銀座の十字屋ホールまではクミコさんの生の歌は聴けません。
のど自慢の予選を受けたことは良い経験でした。
面白いことにNHKでは会場でいろいろなものを売っています。
「のど自慢に行って来ました」のクッキー。
湯のみ、てぬぐい、ハンドタオル、ボールペン、のど飴、ペンライト、オペラグラスなどなど。
予選に出場した人には記念のピンバッジがもらえます。
考えたら予選に6回出場したらピンバッジ6個です。
1回で合格したら1個です。
そんなにピンバッジは要りません。
本当に生バンドで歌えていい経験でした。
1日付き合ってくれた主人に感謝します!

私小説6その後に私

2015年04月24日 | 介護
2015.4.24
私は32歳の厄年で主人と結婚した。条件は千代子さんの追っかけをしたいがための関東圏の人。外見や中身は二の次だった。
たまたまお見合いした相手の主人は埼玉県民だった。結婚は自由を勝ち取るための手段だった。結婚して初めに主人に言った言葉は「あなたより千代子さんの方が好きだから」でした。
それから私は休日は主人を連れて千代子さんの追っかけをしました。それもつかの間結婚10年目にして母との同居が始まったのです。またしても私は自由を奪われました。家では夫婦の会話もめっきり減りました。夜も物音も立てずにおとなしく寝るようになりました。そんな矢先の父の病気。そして父の死。
私はすべてを母に束縛されとうとう更年期からのうつ病になってしまったのです。
そこでたまたま出会ったのがクミコさんの歌。早速ネットで調べてクミコさんの追っかけをするようになりました。そしたら見る見るうちに元気を取り戻したのです。約3年かかりました。母のことは気にせずにクミコさんを追っかけたのです。
パソコンではブログを始めました。ブログには正直に母の悪口も書きます。書けば少しはすっきりするからです。母は私がブログをやっていることを知りません。パソコンではFacebookとTwitterも始めました。歯に衣着せぬ物言いで言いたいことは書くようにしています。
Facebookではお友達も増えました。最近はお友達は限定しているのですが、なぜか増えるお友達。
基本、最近はクミコさんと石巻を愛する人とやぎりんさんのファンの人とはるのさんのファンの人に限定しているのですが…。
はるのさんのことを書きますね。
はるのさんとは、歌手で京都のお茶屋の女将さんをやっている宮川はるのさんです。私よりも年下。Facebookでお友達になりました。そもそもコロムビアの千代子さんの後輩です。やたらと千代子さんの詳しいのです。それで着物美人。
私は着物美人に弱い。歌も上手い。それがあるとき東京のはるのさんのライブに誘われました。ライブに行ったら千代子さんの歌をたくさん歌ってくれて感激してファンになりました。
ところが親しくなるとあれ?っと思うところもあって、ある人に相談したら「距離を置くように」と、言われて、しばらく距離を置いたら、何や知らんけど本気で好きになってファンを続けさせてもらっています。
とにかく面食いです。美人が好き!男は主人以外はイケメンが好き!私よりも背の高い人が好き!性格のいい人が好き!心のきれいな人が好き!
病気は大丈夫です!寛解しました。ただ再発予防に軽い安定剤を飲んでいます。私はちっとも痩せませんが元気ですよ。
明日はのど自慢の予選に行って来ます!下手でも一生懸命歌って来ますね!心を込めて歌えば審査員に通じるはずです。
とりあえず大まかに私のことは書きました。クミコさんつながりでお友達も増えました。みなさん!私のお友達になってくれてありがとう!地元のお友達も私の病気の良き理解者です。
これからもよろしくお願いします。
私に関するご質問はお答えできる範囲でお答えします。
同じ病気の方、大丈夫ですよ。焦らずにゆっくりと治して行きましょう!
いつか明るい光が差し込んでくるはずです!

私小説5千代子さんのこと

2015年04月24日 | 介護
2015.4.24
そろそろ千代子さんのことを書こうと思います。
私が初めて千代子さんを見たのは吉祥寺のおじさんの家に居候していた時だと思います。
白黒テレビで見た千代子さんはきれいな声で歌うきれいなお姉さんでした。
それから事情があって家族でおじさんの家を出て世田谷のアパートに住みました。父は白黒のテレビを買って来ました。その白黒のテレビで再び千代子さんを見ました。それからと言うものたびたびテレビで千代子さんを見ました。私はすっかりファンになってしまったのです。小学校に上がりました。学校に行っても頭の中はいつも千代子さんのことで一杯でした。授業などはまともに聴いてはいません。歌の上手いお姉さんはいつも私の心にいたのです。
いつしか私はひそかな夢を描くようになって、16歳でコロムビアレコードから歌手デビューすることを夢見ていました。小学校の5年生の時です。父は千代子さんの国際劇場で行われている15周年記念のコンサートのチケットを買って来ました。忘れもしない前から20列目の23番の席でした。初めて見る生の千代子さんです。私の第一印象は千代子さんが童の姿で登場してきたとに「わー!足太いんだわ。大根!」でした。丈の短い着物から太い脚が見えたのです。
父は帰りにプロマイドを買ってくれました。私はそのプロマイドを大事にしていました。お宝でした。
歌手になる夢はあきらめる。
あるとき鏡を見ました。自分の顔です。まじまじと見るとなんとブスなんでしょう?「ああ、こりゃあ歌手はダメだ!」それでもどこかで歌が歌いたい。かくなる夢はバスガイドになることでした。これなら歌が歌えると…。
ところがです。あるとき友達の家で私の声をテープに吹き込んだのです。その声を聴いて愕然としたのです。「音痴!」自分がひどい音痴であることが分かったのです。そこで私の歌を歌うと言う夢はすべて絶たれたのです。
夢をなくした私は中学生になっていました。相変わらず勉強は出来ず、おバカ街道まっしぐらの私です。朝から晩まで千代子さんのことで一杯でした。高校に進学してお小遣いを少しずつ貯めては千代子さんの追っかけをするようになりました。初めて行ったのは国際劇場でした。お金がないので座ったのは一番端の自由席でした。初めて握手をしてもらいました。冷たい手でした。私はその手を洗わずに家まで帰ったことを思い出します。ラジオの公開放送にも行きました。初めて一緒に写真を撮ってもらい、サインももらいました。それは大事な宝物になりました。
そんな私もいよいよ高校3年、そろそろ進路を決めなければと言うときになりました。私の希望は和裁の専門学校に行くことでした。千代子さんのために1枚手作りで着物を縫ってあげたかったのです。ところが両親の反対に合い、泣く泣く就職をしました。
就職した先は駅ビルやデパートにお店がある会社です。私はお給料の中から生活費を家に入れ貯金もして残りの小遣いで休日は親の目を盗んで千代子さんの追っかけをしました。
小遣いが少ないから遠くまでの追っかけは出来ません。見つかると母に怒られるのでこっそり嘘をついて出かけますが、母にはバレバレでした。何せハンドバックの中にはチケッの半券があるのです。母はこっそり娘のバックを見ていたのです。仕事帰りにコマ劇場の出待ちもしました。母には「仕事が残業」と言って電話をしました。が、すべてはバレバレでした。
そんなこんなで職を転々としながらも小遣いで休日は千代子さんの追っかけをしました。千代子さんの歌は私の心の支えだったのです。
*続きはまたあとで!

私小説4

2015年04月23日 | 介護
2015.4.23
母と同居して3~4年して別居中の父が脳梗塞で倒れた。
父はディサービスに行く前だった。ディサービスの職員がなかなか父が来ないので父の家を訪ねて気が付いた。父は玄関で倒れていた。すぐさま父は病院に入院した。弟のところに連絡が入った。母のところにも連絡が入った。私たちは病院い駆け付けた。
父は半身まひになり寝たっきりになった。そのうち食事もとれなくなり流動食になった。もう父の住んでる団地には帰れなくなっていた。
私たちは、父の団地の部屋を片付けた。すべてのものを処分して団地を返した。父は流動食をだべるようになった。そしてとうとう流動食も無理になり胃婁になった。病院を3か月ごとに転々とした。どんな父でも父は父。私は父があわれでならなかった。
そんなある日の日曜日、私は父のお見舞いに行こうと思った。主人も「行ってきていいよ」と言ってくれた。ところがどういうわけか母の反対にあった。なぜ実の父なのに自由にお見舞いに行けないのだろう?私は母とけんかした。「そんなに言うならもう行かない!」と、言うわけで私はその日を境に父の病院にお見舞いに行くのをやめた。
後で母が言った言葉は「その日は親戚の人がお見舞いにいくのよ。だから行かないでって言ったのよ」
なぜ?どうして?自分の父なのに思うようにお見舞いに行けないのか?親戚が来たってお見舞いに行ってもいいじゃあないかと、疑問に思った。とうとう私は父が亡くなるまでお見舞いに行かなかった。
父の最後は末期の肺がんだった。家族でささやかな葬儀が営まれた。私は以前から母に「葬式で泣くやつはバカだ!」のと言われていたので悲しみをこらえて涙一つも見せなかった。心の中はグチャグチャだった。母を恨んだ。どんな父でも父は父。私は父がかわいそうに思えた。父は私の結婚式でボロボロに泣いた。男親とはこんなにも泣くものかと言うぐらいに泣いた。
父をこんなにしたのには母にも責任はあるのだ。父だけが悪いわけじゃあない。私は父に対して親孝行の一つも出来なかった。それを今でも悔やんでいる。
母親との同居は上手くいかなかった。毎日がけんかの連続だった。私たち夫婦はすべても行動を母に監視された。大好きだった千代子さんの追っかけも回数が減った。
弟は母を私に預けたきりだった。買い物をして来れば「何を買ってきたの?」「なにこれ?」は日常茶飯事だった。家の電話も自由に使えなかった。「誰からなの?」「何の電話?」「何処へかけるの?」とうとう私は携帯を持つようになった。外出も「何処へ行くの?」「誰と行くの?」「何しに行くの?」「何時に帰って来るの?」はいつものことだった。
ストレスがたまった。夫婦の会話も外出の時だけになった。そんな矢先私が更年期になった。近所の婦人科に通った。が、どうも通っているうちに益々おかしくなった。それが病気の始まりだった。
うつ病だった。保健センターの「こころの健康相談」に言った。知り合いの保健師さんと知り合いの精神保健福祉士さんに正直に自分のことを話した。病名は「うつ病」
友達に相談して市内の精神科は嫌なので3つ先の心療内科に通うことになった。辛かった。毎日が辛かった。何もする気が起きなかった。気分の悪い日が何日も続いた。原因は母にあった。病院には主人が付き添ってくれた。そんなときたまたまテレビでクミコさんの歌を聴いた。
「我が麗しき恋物語」だった。「あっ!」と思った。それからネットでクミコさんのことをいろいろ検索した。コンサートにも通うようになった。始めは落ち込んでいた私がだんだんクミコさんの歌で元気をもらえるようになった。
たまたま出会った病院の良い先生と良い薬と主人の支えとクミコさんの歌で私の病気はだんだん寛解に向かって行った。それはいまから5年前のことだった。
3年前から病気はほぼ寛解!
ただしこの病気は再発もあるのでいまだに病院に通っている。軽い薬を処方されて飲んでいる。先生からはアルコールを少しなら飲んでもいいと許可をもらっている。たまにはアルコールも飲む。最近は病院に行っても診察は5分で終わる。クミコさんの話をして帰って来る。主人は私が病気になっても離婚もしなかった。いつもおとなしくそばに寄り添ってくれた。感謝している。
母とは相変わらずだが、私は病気をして少しは強くなれた。病気をしたおかげで同じ病気の芸能人の本をたくさん読んだ。そしてこの病気は治ると確信した。
大丈夫です。今病気のあなたもきっと寛解しますよ。明けない夜はない。明日は必ず来る。
*それではまた!今度は千代子さんのことも書きますね。