ちいちゃんのひとりごと

ちいちゃんのひとりごとを勝手気ままに書いています。

私と言う女遠い記憶part25

2018年01月31日 | 介護
正に人生は人それぞれです。どんな人にも生きる権利があるのです。しかし、私はある日その生きる権利を放棄しようと思いました。それは忘れもしない中学2年の時でした。
友達もいなく、勉強も出来ない私は絶望の淵にいました。このまま生きていても仕方がないと思っていました。私は何かの紙に汚い字で遺書めいたものを書きました。それを教室の机の上に置くと、教室の窓から外に足を投げ出して座りました。
もう、生きる希望も夢も無くしていたのです。このまま窓から飛び降りようと思いました。今にも飛び降りそうな時に、クラスの女の子達が気がつき私を止めました。
その時、私は窓から飛び降りるのを断念しました。おそらくクラスの女の子達は私が飛び降りたことで新聞に載らないか?テレビのニュースにならないか?と、心配して止めたのかも知れません。学校中が騒ぎになることを恐れて止めたのかも知れません。
その事はすぐに担任の教師に知れ渡り、後日母が学校に呼ばれたのは事実です。私は母が学校に来て家庭科室に入って行くのを窓から見たのです。
母は担任と何を話したのかはわかりませんが、その日私が学校から自宅に帰っても何も言いませんでした。その後も母はその事は何も言っては来なかったのです。
あれは私が生まれて初めて死にたいと思った出来事でした。
その後も何回も死にたいと思うのですが、思うだけで勇気はありません。
私は中学も3年間卑劣ないじめにあいながらも、学校はきちんと行きました。何故なら登校拒否と言う言葉はその頃はなかったのです。それよりも病気でもないのに学校を休むと言うことは出来なかったのです。何より母に怒られることの方がはるかに怖かったのです。連日何らかのいじめにあいながらも、学校にはきちんと行きました。勉強は出来なくても学校は行きました。私は母に怒られる方がはるかに怖かったのです。
その中学の頃の卑劣ないじめは今はどんないじめだったのか?覚えていません。もう、どこに行ってもひとりぼっちなのです。生きる希望も夢も無くした私に残されたものは歌手の今倉千代子の歌しかなかったのです。
友達との遊び方も知らない私は常に一人でいました。
ここであの頃の卑劣ないじめを思い出したところで心に受けた傷が癒されるとは思いません。どこかであの頃の私をいじめたみんなが幸せであって欲しいと思います。それはそれだけ私が大人になったと言うものです。
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