チエちゃんの昭和めもりーず

 昭和40年代 少女だったあの頃の物語
+昭和50年代~現在のお話も・・・

貧乏

2018年01月15日 | お母さん
やぢ(お母さんの実家)のうぢは貧乏でなぁ。本当に困ってたんだ。
一銭もお金なんてながったし、あした食う米だってねえごどなんか しょっちゅうだった。
隣の家のおみわさまってばあちゃんが、いい人でなぁ。
家族には内緒で 米だの みそだの 持って来てくっちなぁ、こっそり土間においでぐのさ。
おらいが困ってんの わがってっからだべ。ほんとに、ありがだがったなあ。

わだしらの母ちゃんはな、最初は乳ガンだったのよ。
わだしが小学校に上がる前に病気になったんだよ。
んだがら、小学校の入学式の時は、キクばあちゃん(お母さんの祖母)に連れらっち行ったのよ。
母ちゃんの古~い着物を縫い直してもらって、ばあちゃんが着るような地味~な着物着てな。

今の医大の前身の病院で、手術をうげだのさ。
そんとぎ、本家の嫁さまの実家がおおきな農家でなぁ。そっからお金を借りで、病院の支払いができだんだ。ありがだがったよ。
少しばかり小作で米つぐっでだんだげんちょも、ほんなんでは借金返えさんにがらな、田んぼは返して、おどっさっぁまはカラフトまで出稼ぎに行ったんだよ。樺太だよ、樺太。
どんなきもぢだったんだべなぁ。母ちゃんとばあさまと子どもだぢをおいで出稼ぎにいったんだよ。
んだげんちょも、カラフトの出稼ぎはお金になったんだ。

あの頃はガンなんていっても、今みだいな知識もながったし、そのうぢ治るべなんて思ってだんだな。
1~2年たって、再発してな。入退院の繰り返しさ。
ほんでまだ借金して。
今度は出稼ぎしても間に合わなぐなって、一番上のあんちゃんが本家の嫁さまの実家に(住み込みで)年季奉公に行ったんだよ。
お金では返えさんにがら、働いで返すってごどだべ。
二番目の勇作あんちゃんも、「おら、(小学校)卒業したら、本家の嫁さまの実家にいぐんだ。」って言ってだもんよ。学校の頃がら言い聞かせらっちだんだべ。
それを奥の寝床で聞いでだ母ちゃんが、ボロッ、ボロッ、涙こぼすのを何度も見だよ。
自分のせいで、子どもだぢにつらい思いをさせるって、思ったんだべ。
わだしは まだちっちゃがったがら、奉公にやらんにがったげんちょも、2人のあんちゃんだぢはそうやって働いて、借金返したんだよ。
ほんだげんちょも、(お金が借りられて)ありがだがったよ~。

ほれがら、母ちゃんは全身にガンが転移しちまって、5年間の闘病の末に40歳で亡ぐなったんだよ。
わだしが小学校5年のとぎだった。

わだしは母ちゃんの倍以上生ぎだし、2人のあんちゃんよりも、誰よりも長い生ぎして、一人になっちまった。



この話は何度も聞かされたけど、いつも「涙がボロッ、ボロッ」ってくだりで、こっちまでウルウルになっちまうよ。
昔は、みんな貧乏だったんだよ。




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3 コメント

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おらいも (玉井人ひろた)
2018-01-18 11:29:06
我が家も同じでした。伯父たちが祖母(母親)の実家に住み込み=「いそうろう」で借金代わりに行っていました。

ただ戦争がはじまり、長男、次男、と徴兵され三男である父も行く羽目になっていったそうです。
伯父達は20位、祖母は40ぐらいで亡くなりました。

悲しい時代です
>玉井人ひろたさん (チエ)
2018-01-20 20:22:16
いつもコメントありがとうございます。
あの時代の貧乏って、私など想像もできないほど辛く、悲しいことだと思のですが、それでも助けてくれる人もいたんですよね。
人情があったというか・・・
母はそれを「ありがたい」と言っているような気がします。
その貧乏から抜け出そうと、みじめな敗戦から抜け出そうと、あの時代の日本人はほんとうにがんばったと思います。
ありがたいと思います。

昔話 (玉井人ひろた)
2018-02-02 17:21:32
わたしが、亡き父、そして高齢になった母から聞く話は、助けてくれる人は無いどころか、屈辱と差別に遭い「人の本性とはこんなものか」と、ただ忍耐だったと聞いています。

ロマンが無くてすみません

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