真似屋南面堂はね~述而不作

まねやなんめんどう。創業(屋号命名)1993年頃。開店2008年。長年のサラリーマン生活に区切り。述べて作らず

昭和が歴史へと移行する中、“「天皇制下の軍事主導体制」から教訓を学ぶ人に捧”げられた本を読む

2008-11-04 | 読書-2008
来年早々から平成生まれが二十歳だもんな。

『昭和天皇、敗戦からの戦い―昭和史の大河を往く〈第3集〉』
保阪正康【著】
毎日新聞社 (2007/11/20 出版)

南面堂は昭和の半ばからこの世にお世話になってきたものであるのだが、昭和天皇の弟宮たちのどなたがどういう方であって、というのがじつは全く頭に入っていなかった。
「えーっと、ラグビー場に名前がついてる宮は?海軍に籍があった宮とか、古代オリエントの研究だかをされていた宮がおられた?どの人が誰?・・・」というレベルだったのよ、お恥ずかしいことに。失礼しましたぁ。

昭和史の大権威保阪氏のおかげで、ようやく整理できて頭に入った!
それぞれの章にゆかりの深い場所に立った著者が感じた事を記載するという企画もよい。
(Aオンライン書店の顧客レビューで期待外れを表明した声があったが、残念なことである~その声の投稿が残念なのね)
素人ではなくて、無数の(延べ4千人とか)関係者にインタビューを重ねてきたという著者だからね。価値があるのさ。

4兄弟:
昭和天皇(1901年(明治34年)4月29日 - 1989年(昭和64年)1月7日)
秩父宮雍仁親王(1902年(明治35年)6月25日 - 1953年(昭和28年)1月4日)
高松宮宣仁親王(1905年1月3日 - 1987年2月3日)
三笠宮崇仁親王(1915年12月2日 - )

海軍の中枢(軍令部)で情報に通じていた弟宮のひとりは、戦況悪化の中、兄=エンペラーに向かって「東條たちは本当の戦況を報告していません・・・」と(いう趣旨のことを)指摘、「制度として自分に報告する責任のある者の言うことを聞くのだ」という長兄と議論が平行線だったという。(これは有名)

ちょっと杓子定規なところがあったのね、おにいちゃんは。
万事問題なく進んでいるときは良いのだが、状況が乱れてむちゃくちゃになると辛いわね。
弟宮の危機感の叫びは、「あなたは裸ですよ、どうか目を覚ましてください!」ってことになるよね。
(とまで解釈すると言い過ぎなのかも知れないが、でもそういう意味になるんじゃない?)
「王様は裸だと叫ぶ少年・・・」という話は過去何度か書いたが(7/4、7/12など)、本当にそのような地位にある人にそのような趣旨のことを直言して激論になっていた「弟」がいたのね。

歳の離れた末弟も陸軍に進む。支那派遣軍参謀として勤務していた際、満州事変、支那事変について
「両事変共陛下の御考え又は御命令で戦闘が生じたのではなく、現地軍が戦闘を始めてから、甚だ畏れ多き言葉ではあるが、陛下に爾後の後始末を押しつけ奉ったとも言うべきもの」との文書を書き、「危険文書」として問題になったという。
・・・そうか、「若杉参謀」という変名は、お印の若杉から来ている、と。

本当のことを言っても大丈夫なのは直宮くらいしかいなかった時代、だったのかもね。
戦後も、インタビューなどで「軍人は‘これが大御心だ’とかなんとか言って勝手に走ってしまう」と(いう趣旨のことを)ずばりご指摘。

列強の植民地にされてしまわないようにするためには軍事主導で行くしかないという明治の時点での国家の設計は、とりあえずは正解だったのだろう。
だが、それが暴走し始めて誰にも(天皇にも)止められなくなったという悲劇、というわけか...

翻って(ひょい)、
冷戦という枠組みの下、人口は増加するという条件を所与として形成された政治・経済の仕組み・・・、もうこれでは上手く行かないと十二分に思い知らされてからでないと修正することができなかったのでした、と後世から評価されるんだろな。
「自分はその必要性がわかっていた」と主張するヒトは無数にいましたが、国の方向として合意を形成することがなかなかできずに長い年数を浪費したのでした、と。

えーと、子沢山なのはご健在の末弟で、お孫さんのうちの一人が留学中に‘はじけちゃったりして’週刊誌等をお騒がせ・・・はまた別の話ということで。

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