成瀬仁蔵と高村光太郎

光太郎、チェレミシノフ、三井高修、広岡浅子

井上秀と星野あい(津田英学塾塾長)、そして石原謙(東京女子大学学長)

2016年04月12日 | 歴史・文化
星野あいは、創立者津田梅子の跡を継ぎ、津田英学塾第二代塾長となる。卒業生最初の校長、塾長という点では、井上秀と事情が似ている。しかし戦争に対する認識については、両者は大きく異なる。
宣戦の大詔の日、津田英学塾でも生徒一同は体操場に集められ、星野あい塾長が訓示をしている。
「塾長を初めとして米・英国の国情、国勢を現地に学び知っている人たちの眼には、この戦争は無謀と見えた。それだけに危機感は深かった。、、、星野塾長は文化の意義を説き、戦いがはげしくなればなるほど、忘れられ、無視されてゆく文化のともしびをたとえ細々とでも保ち続けるのが、実戦に参加しないで、学ぶことを許されている者に残された大事なつとめであると語った」
津田英学塾のような英米の学問を学ぶ学校だけではなく、ミッション系の学校に対しても、当局の圧力は厳しかったようだ。
石原謙(宗教学)は、昭和15年、安井てつ学長の跡をついで、東京女子大学学長に就任する。安井てつは、仙台の東北大学を訪ね、石原謙と極秘に面会、学長就任を要請したらしい。
就任後、新学長・石原謙の感化力は大きく、学問を尊ぶ気風が澎湃としておこったといわれ、石原自身、生徒の勤労動員先までも講義の時間を設けたという。
大学のシンボルである講堂を軍需用に提供することを頑強に拒んだ石原は、軍部から戦争非協力者としてマークされ、身辺に憲兵隊や特高警察の監視の目が光るようになったという。
成瀬仁蔵がかつて校長を務めた大阪の梅花女子専門学校においても、似たような事情であった。英語は敵性語として忌避され、英語科を随意科とするように当局から要請され、「教育体制の軍事化に抵抗できないでいる校長と、それでもなお、キリスト教信仰に立つ建学の精神の高揚に努める校長の姿をここにみる」と述べられている。
日本女子大学校は、創立者・成瀬は牧師出身ではあるが、ミッション系の大学ではない。津田塾、東京女子大学などに比べれば、井上秀の方針と活動とも関係するが、当局との関係は良好であったといえるだろう。ある意味で模範校のような存在であったかもしれない。




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