陸奥月旦抄

茶絽主が気の付いた事、世情変化への感想、自省などを述べます。
登場人物の敬称を省略させて頂きます。

ロザリンド・フランクリンとDNA構造

2006-09-17 12:21:43 | 熱意ある技術者
 今日では、犯罪捜査などでDNA鑑定などの言葉が頻繁に使われるし、個人の特定にDNAデータを用いる事が多くなった。DNAとは、デオキシリボ核酸(Deoxyribonucleic Acid)の頭文字であり、遺伝情報を含む重要な生体高分子である。生体細胞核の中に染色体があって、染色体はDNAから出来ている。

 1950年頃までにDNAの化学的組成については、デオキシリボース(糖)とリン酸、それに4種類の核酸塩基(チミン、シトシン、アデニン、グアニン)、合計6種類の構成単位から成る事が明らかになっていた。

 これらが繋がって長大な高分子を構成することも分かっていたが、どのような結合様式で分子鎖構造を採っているかは不明だった。ここで、チミン(T)とシトシン(C)は六員環から成るピリミジン構造を持ち、アデニン(A)とグアニン(G)は六員環+五員環のプリン構造を持っている。

 当時、DNAが遺伝情報を持っている事も理解されていたが、伝達メカニズムまでは分かっていなかった。これらは、DNAの分子構造の全貌が明らかになって、立ち所に分子レベルで遺伝子伝達機能が解明された。

 二本のDNA分子は二重らせんを構成し、上記4種の塩基がA-T、C-Gの組み合わせでそれらの間で水素結合を形成し、二本のらせん分子をつなぐ形で配置されるとするワトソン/クリックモデルが有名である。

 彼らは、DNAの分子モデルを試行錯誤で作って行ったが、その際基本的な情報はDNAが形成する結晶構造から得た。この結晶構造情報をワトソンとクリックへ与えた若い女性結晶学者がいた。ロザリンド・フランクリン(1920-1958;享年38才)がその人である。

 ロザリンド・フランクリンは、ユダヤ系の英国女性である。彼女は、保守的な銀行家の長女として1920年に生まれ、5人の兄弟と共に青春を過ごす。人形遊びよりも、もの作りの大好きな女の子であった。父親が子供達の為に作った工作台の側にいつもいて、何かを作っていた。

 当時は女性が高等教育を受けるには、相当な抵抗があったけれども、フランクリンは両親を説得してケンブリッジ大学(ニューンハム校)へ入学する。彼女は負けず嫌いで集中心があり、猛烈な努力家であったようで、大学を第二位の成績で卒業し、ロンドンの英国石炭応用研究所(CURA)に勤務する。卒業当時の1942年は、将に第二次世界大戦の最中で、ドイツ軍の空爆の下、フランクリンは同研究所で石炭の構造に関する優れた研究を行い、25才でPh.Dを得た。

 第2次世界大戦終了の2年後(1947年)、ケンブリッジ大学時代に仲の良かった友人エイドリアン・ワイル(フランス人)の協力を得、パリの国立化学研究所に移って勤務するようになった。ここで、彼女は黒鉛の結晶学的研究を行い、X線回折実験の基本を身に付けることが出来た。

 パリでは、英国と異なり男女差の無い自由に研究に打ち込む雰囲気に包まれていた。活発な研究議論がこの研究所では当たり前であったから、彼女の人生の中で最も明るく、そして充実した時期であった。一方、フランクリンは、友人達とヨーロッパのあちこちへ登山旅行を楽しむ。彼女は、登山が大好きで、スイスや北欧の山々へ脚を伸ばしている。この4年間のパリ時代に彼女が行ったグラファイトの構造学的研究成果は、現在も利用されている程にレベルの高い内容である。

 1951年、31才になったフランクリンはロンドンに戻り、キングス・カレッジのジョン・ランデール教授にX線回折技術を評価され、同大学の博士研究員として雇用される。ここでは、同僚のモーリス・ウィルキンス(35才)と共にDNA結晶構造解析を行うことになった。ランデール教授の説明不足もあったのであろう、2年間のウィルキンスとの協同研究体制は、両者の性格的な違いから感情的なもつれを伴い、加えて男尊女卑観念の強かった英国で彼女は寂しい思いを何度も味わった。

 フランクリンが心血を注ぎつつ工夫しながらDNAの結晶化を行い、その結果、鮮明なDNAの繊維構造回折写真(A型結晶)を得た。それは、ウィルキンスによりイタリアで公表された。たまたま、仕事を求めてヨーロッパへ来ていたジェームス・D.ワトソン(25才)はその発表会場にいたが、ウィルキンスの示した美しい回折写真は結晶学の知識が全く無いワトソンをさえ魅了した。

 既にフランクリンは、当時得たX線回折像から判断してDNAのA型とB型の結晶変態に関する区別を行っていた。また、DNAがらせん構造を形成することを最初に見出したのは、間違い無く彼女である。

 暫くして、フランクリンはキャベンディッシュ研究所(ケンブリッジ)でDNA結晶構造に関する講演を行う。そこで同研究所に雇われたワトソンとフランシス・クリック(結晶構造研究者;35才)に出逢う。二人のテーマは、DNAの分子構造探索であった。お調子者のワトソンは、フランクリンを気難しい人物と見ていたらしい。

 1953年、科学雑誌<ネイチュア>にワトソンとクリックの著者名でDNAの二重らせんモデルが発表される。これは、前記4種類の塩基を水素結合により組み合わせる優れたアイディアを含んでいる。だが、フランクリンはDNA結晶の鮮明な回折写真から、格子定数と繰返し周期、及び含水量など重要な結晶学的情報を既に得ていた。彼女の得たデータが密かに盗まれるようにして二重らせんモデル構築に用いられた。それでもフランクリンは、ワトソンらの発表を知るとDNA構造決定が完成したとして両人の成功を悦んでいた。

 その後、雇用契約が切れて1953年4月にフランクリンは同じロンドンにあるバーベック・カレッジのJ.D.バナール教授に雇われ、ウィルスの構造学研究に従事する。その中で、彼女はタバコ・モザイクウィルス(TMV)の基本構造として現在も用いられる分子モデルの構築を行った。

 高名な結晶学者であったバナールの教え子に、フランクリンより年長の女流結晶学者であるドロシー・クロウフット・ホジキン(1964年ノーベル化学賞受賞)がいる。少々話はずれるが、バナールは優れた歴史書「歴史における科学」(1954;現在、第3版が鎮目恭夫の訳でみすず書房から出ている)の著者としても有名である。

 バナールは共産主義者としても知られていたが、フランクリンはその思想に全く影響を受けず、結晶学者としてのバナールを心から尊敬していた。1955年に機会を得て、フランクリンは米国における学術講演旅行に出掛ける。この際、バナールの研究室所属が問題となった。当時、米国ではマッカシー旋風(赤狩り)が吹き荒れていて、米国へのビザが仲々降りずに彼女は苦労をしている。米国では、あちこちを講演して回り、親切にされた。ほのかな恋物語もあったようだが実らなかった。

 そうした時期に、フランクリンの研究協力者としてアーロン・クルーグ博士(リトアニア生まれで南アフリカで育つ)がバーベック・カレッジへ来た。後に、クルーグは「結晶学的電子分光法の開発と核酸・蛋白質複合体の立体構造の解明」でノーベル化学賞を受賞(1982年)するが、その業績は彼女の研究指導に負う所が大きい。

 フランクリンは、卵巣ガンの為、1958年に37才の若さで逝去する。DNAの仕事を終えてから、僅か5年後の事であった。亡くなる数週間前まで、彼女は熱心にポリオ・ウィルスの構造学的研究を続けていたし、死の床にあってもベネズエラから研究招聘を受けていた手紙を側に置いていたと言う。

 フランクリンの死後4年を経過した1962年、ノーベル生理学医学賞は「核酸の分子構造および生体における情報伝達に対するその発見」に関して与えられた。受賞者は、クリック、ワトソン、ウィルキンスの3人である。

 ノーベル賞は生存者にだけ与えられるから、この時既に亡くなっていたフランクリンの名前が入らないのはやむを得ないのかも知れないが、ウィルキンスの受賞に関しては相当に疑問がある。私は、ワトソン/クリックモデルの提案が分子遺伝学の先駆けとなり、ノーベル賞に値する偉大な内容を含むことを認めるのではあるが、そのモデル化に際してフランクリンの知らない間に、彼女が苦労して得たX線回折写真や結晶学的情報をワトソンとクリックにウィルキンスがこっそりと見せているのは、どうもいただけないと思う。これは、はっきり言って科学者として恥ずべき行為である。

 加えて、正確なDNAの結晶学的データを得た彼女の業績が、世間において正当に評価されていないことを寂しく思う。DNA構造研究の8割は、フランクリンの努力によると言って過言では無い。また、X線回折技術に全くと言って良い位に疎いワトソンが、その著「二重らせん」(1968)の中で、フランクリンを“ロージー”と軽薄に呼び、狷介な女性として揶揄している。

 「二重らせん」が世界的なベストセラーになる中で、1978年、憤激した親しい友人アン・セイヤーは、フランクリンの暖かい人柄と有能さを紹介し、彼女のDNA研究成果は盗まれたのだと自らの著書で強く弁護した。クリックも紹介記事の中でフランクリンの業績を認めている。一方、ウィルキンスは、ひたすらに沈黙を守った。

 2002年、伝記作家のブレンダ・マドックスは、改めてフランクリンの優れた人間性を愛惜し、その業績をまとめ上げた。また、ケイス・センカーも、少年向きの著書(2003年)でフランクリンの魅力ある人柄とDNAの研究、グラファイトに関係する仕事、TMVのモデルを紹介している。

 実質的にDNAの結晶学的データを得、らせんモデルを考えていた彼女の業績が、世間において(特に日本で)正当に評価されていないことを心から憂える。らせん分子に対する普遍的な回折理論を展開したクリックに対し、1953年以降、フランクリンが様々な助言を真摯に求めていた逸話がある。それを聞いて、実力ある結晶学者としての彼女に、限り無い哀切を感じるのは筆者だけではあるまい。

参考:
J・D・ワトソン、「二重らせん」(講談社文庫、1986)
アン・セイヤー、「ロザリンド・フランクリンとDNA-盗まれた栄光-」(草思社、1979);Anne Sayre, "Rosalind Franklin and DNA", W.W.Norton & Company Ltd., 1978
Cath Senker, "Rosalind Franklin", Raintree Steck-Vaughn Publishers, 2003
Brenda Maddox, "Rosalind Franklin - The Dark Lady of DNA", Harper Collins Publishers, 2002
E.フランケル(佐藤哲、酒井一夫訳)、「DNAのはなし」(東京図書、1989)

コメント (2)   この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 中共の水問題は危険レベル | トップ | 温家宝首相、欧州で苦吟の旅 »
最新の画像もっと見る

2 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
ロザリンド フランクリン (大根)
2010-04-18 08:31:44
2重螺旋を読んだ時、ワトソンの、ロザリンドのデータを泥棒する行動にあきれた記憶があります。ワトソンのロザリンドに対する評価は異常と思えました。研究者でこういう行動をするのは、当たり前で、異常な世界です。普通なら、後ろに手が回るのですが。
螺旋構造まで、ロザリンドが解明していたとは知りませんでした。
それいにしても、業務上横領をした、ワトソン クリック ウイルキンソンの罪を誰か問わないのでしょうか。
Unknown (実結)
2011-08-06 16:41:07
私は、初めてフランクリンという女性科学者がいたことを知りました。

↑ 同感です。
あの三人は罪を犯したのにノーベル賞という名誉を頂いていることに対し、腹が立ちます。

コメントを投稿

熱意ある技術者」カテゴリの最新記事