michigan's

〜my everyday life, とりあえずの日常〜

別ものだよね?!

2024-02-21 23:51:00 | 日記2024
2年前、職場の中庭で猛々しいと言っても良いほどの栄養状態の良さで群生しているのをもらってきた「ねじ花」(母の好きな花)。 

土壌に合う合わないが結構あると聞いたので、
周辺の土ごと結構ごっそりともらって来て、
なるだけ他と混ざらないように鉢で育てていた。 

昨年は鉢を一回り大きなものに植え替えた。
新しい土を混ぜることが少々心配だったが、
初夏にはきれいな花を付けた。

冬の間も、
何とか葉っぱを絶やしていないようだったので安心していたところ、
途中から、妙にその葉っぱが

「別物かもしれない」

疑惑浮上。

今日、急な用事で予定外に実家に日帰りしたのでまじまじと見てみたところ、

やっぱこれ、「別モノ」だよねっ、ねっ?



あまりにも、「ここは私の場所です」と言わんばかりのど真ん中に生えている株はしかし、
周囲にたくさん出て来ているストレートな葉っぱの付いた小さい株と、
明らかに違います。

ど真ん中なのでかなり勇気がいるけど、
割り箸を持って来て、
周囲の「ホンモノ」を傷つけないようにゆっくり奥まで掘って抜き出しました!

それがこれ



グーグルレンズさんに相談するとやはり、

「ヒメムカシヨモギ」か「オオアレチノギク」と出て来ます。

オオアレチノギクと言ったらアナタ(誰?)、
去年お隣さんとの間で2メートルくらい聳え立って、
何か大切なものだと母に勘違いさせて、花壇に植わっている他の植物の栄養分を横取りした、
あのにっくき外来種ではないですか。

そんなものを、うちの大事なねじ花ちゃんと間違えて大事に鉢の栄養を分け与えていたとは( ̄▽ ̄;)

カッコウの托卵みたいなものかぁ〜!?

  〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜

今日は、実家のトイレの排水管の工事が思わぬ早い日程に決まり、
トイレ関係のことなど、
さすがに母一人ではパニックになりそうなので、
実家まで日帰りして来ました。

思考力が尽きるのでこの辺で〜

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祖父の日記

2024-02-15 08:38:00 | 日記2024
年明けから日記がとびまくりの理由は、

(1)正月も明けるか明けないかの4日夕、実家のトイレの排水溝が突然詰まり、
二つあるトイレの二つともが使えなくなったこと。

仕事始めにもなるかならないかのうちで、高齢の母と一晩災害用トイレで過ごす、という、図らずも大地震の予行演習みたいなことに。

幸い、たまたま電話した業者が良い方で、
仕事始めよりも前のその晩のうちに見に来てくださり、
翌朝朝イチで応急工事をしてくれた。

現在まだ、追加の補強工事を計画している段階です。

(2)年末に息子が入籍したことで、
あまり声を大には言えないが、私個人的にも用事が何かと増える。
なかなかタイトな日々です。

(3)その息子の車のことで、某大手ディーラーとの間で超面倒な問題発覚。
(これもしや不正…⁉︎) 
解決にかなりかかりました。

(4)…と言ってるうちにも、
普段使っているガソリンスタンドで、私の車の不具合が指摘される。

これもその大手ディーラーが絡まないでもなく、修理完了までに結構な労力と、そしてお金がかかりました(⌒-⌒; )


カクカクシカジカ、
次々といろんなことが連続して起こり、
私、何かに祟られてないよね?
という2024年の始まりです。

これからも何かとあるかもしれないけれど、
確か前にも書いたけれど日々の記録は大事。
個人的に他で書いている中から、
時々ここにも残す、と言うスタイルに変わりそうです。

その私的な記録の方も、
やっとこさ今に追いついたところ。

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2/13(火)

学校行事明けなどで、少し授業の仕切り直しはあるものの、
連休明けの普通の出勤日。

4時にガスの点検が入っていたので、
仕事終わりまっすぐ家へ。

ガス屋さんは何があってもいつもすぐ対応してくれる良い会社だが、この日来た作業員の男性もとても良い方だった。

夕飯には学校販売のパンを立て続けに2個食べて、
とにかく祖父の日記の解読にとりかかる。


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実家の関係でこのところ紐解く必要が出てきた昔の記録。

またも超几帳面母が、60年ほども前の父方祖父の日記を保管してあり、
関連箇所に付箋を付けるという作業をしていたその続きということになる。



古い字体、達筆ではあるが祖父の文字自体に結構癖があり、固有名詞など出て来ると皆目わからないことが多い。

何より、やはり古いものが手近にあると、目、鼻、喉に軽くアレルギー症状が出て来る。
(昨年5月の、謎の体調不良の連続はもしや、その前に大量にうちに持って来てスキャンなどしていた、実家の古い書類のせい??)

ということで、祖父には申し訳ないが眼鏡とマスクの作業。
(はじめは手袋までしていたが、流石にそれでは作業しにくいのでやめた。)


  〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜❇︎〜

懸案の山の取引があった年の前年である、約60年前からこの日記は始まっている。

この時既に、祖父の生まれ故郷である田舎の家の一部を部分的に市街地に移築して来ていて、
私の生まれる前に古い方の実家が建ち上がっていたようだ。

祖父は既に、その実家のすぐ近くの市民病院に長期入院していて、
病院から田舎の山に通って、作っていたみかん類の手入れや取り入れをしていたようだ。

自分は既に車にも乗れず(祖父の元の事業は運送屋だったのに)、
交通の便のすこぶる悪い中(当時その祖父の出身地まではバスで片道約1時間)、
地元の知り合いを雇って苦労して趣味の山の手入れなどして、
何箱ものみかんなどを木箱で持ち帰り、
荷造りしてあちこちの親戚に送り出した、
知り合いに少しずつ売った、など、
山関係の細かい記録が残っている。


子供の頃、家には季節のみかんが箱で置いてあり、
いつもほぼ食べ放題だった我が家だが、
そこまでの祖父の苦労があったことは当時はもちろんよくわかっていなかった。

入院中の日々の体調と、山関係の記録が淡々と綴られているだけなのだが、
故郷の「◯◯へかへる」「◯町(=息子の家)に出て行く」「病院にかへる」という繰り返しに、
この時既に自分の家を持っていなかった祖父にも、「帰る」と表現するところがたくさんあったのだと思えるのはやや救いだ。

それにしても、祖父は入院しながらもほぼ毎日(しかも結構日に何度も)外出したり、
夕方は息子の家に帰って来て私たちと夕飯を一緒に食べ、何時間か一緒にテレビを見たりなどして過ごし、また病院に帰って行く、というのが常だった。
(そんなことが当時は許されていた鷹揚な世の中だったのねf^_^;)


祖父の病気が何だったのか、
子供の頃母に聞いても何故か判然としなかったし、
私たちが病院に行っても、外で待たされて中に入ったことはなかった。

それから判断するに、祖父は結核だったのか(祖父は妻を終戦直前に結核で亡くしている)と思っていたが、
いくら当時でもそんな人の外出を病院が許可する気はしないし、
日記中には軽い心臓発作を何度か起こしたことが書かれていた。

淡々と短い日記の行間から伝わって来る祖父の思いに、
この晩はうまく寝られず。

(日記はまだ解読途中。)


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