♪♪ 私の お寺ライフ ♪♪

 ブログアップして8年目に突入。相変わりませんが、私の「如是我聞」をお送りします。南無阿弥陀仏

慶聞抄 2018年3月号

2018-02-16 11:52:00 | 随想
慶(きょう)聞(もん)抄(しょう)
  2018(平成30)年3月号
(NO・52) 了雲寺 釈幸華


風邪引きまして

前日の夕方から何か喉の奥に違和感があって予感はしてたんです、やっぱり次の朝、起きることができず電話でその日のお参りができないとお許しを願いました。病院での診察でインフルエンザはどうやら免れたようですが、「そんなに長引かんやろ」と高を括って受け取った1週間分のお薬も飲み果たした今もスッキリせず、です。
 年を取るということは、こういうことなのかと思いました。実は三日目の夕方、もうええやろと散歩に出たら(実際、そういう気分になっていたので)次の朝、まさかの発熱。無理はしていないつもりでも、無理をしているんですかねぇ・・。
 そう悟った後は迷いなく、買い物、ゴミ出しなど必要最小限の動きの他はお布団に入ってゴロゴロ。買い物も、日頃は厳禁のクリームべったり菓子パンなど購入。ここぞとばかり怠け、サボり、寝たおす。勿論しんどいからそうなるのですが、それを後ろめたく思わないでできてしまうのが嬉しいところ。たまには風邪引きもいいものです。

 巨星往生 

大峯顕(あきら)先生の訃報を新聞で知らされました。1月30日、88歳だったそうです。
吉野の本善寺に従姉妹を誘って法話を聞きに行ったのは、もう2年も前のことでしょうか。(調べたら16年1月号・№26) くぐもった柔らかな声が本堂を包み、いたずらっ子のような物言いに時々あがる笑い声。先生のご法座は、居心地の良い別天地のようでありました。

布団の中でゴロゴロするうち、かつて先生のご本に線を入れたところを読み返しておりました。



「私の煩悩の中に、煩悩と一体となって住んでくださるものを仏というわけであります。だから私のこの煩悩の心以外に仏の存在の場所はどこにもないのです。これは私の心がそのまま仏だという意味ではなく、この私の心の中にしか仏様のお住みになるところはないという意味です。」(浄土の哲学)

「・・そういう大きな命というものに対する覚醒と自覚のことを、親鸞聖人は『帰命無量寿如来』とおっしゃったのです。これを普通の言葉で言ったら、『私は大きな命に自分をまかせます。私は大きな命に生かされて生きています。その命はこの私よりも尊いものです』ということです。そういう個人以上の生命のレベルというものに対して本当に目を覚ますということがないと、命の尊厳という現代社会の流行は、どこまで行っても中身のない空虚な言葉だけであって、本当の思想にならないと私は思います。」(招喚する心理)

「神話とは、人間の理性の言語で言えない根源的な真理を語る言語のことだということが発見されたのです。知性で表現できない真理を、お伽話風に言うのです。・・お浄土に生まれて十方の衆生が救われるというようなことを論理の言葉で言うことはできません。」(永遠と今)

「いかなる物も何かの手段であって、目的ではないのです。ところが、他のどんな物の手段にもならない自己目的性を持っているものを、尊厳とよぶのです。カントによれば、それは各人の内にあるところの人格性というものです。・・この人格性は、仏教の言葉では仏性に当たると思います。」(同前)


病気になってみて改めて自分の頼りなさ、危うさを思い知ります。私が、という我執が無くなり、素直におまかせできる私になれるのなら、病気も老いもそう悪くはありません。  合掌

* お寺カフェ 第3水曜日
* ビハーラ花まつり 4/5 桂三金さん
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