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変な男の人生いろいろ日記

「風林火山」!!「登場人物」!!Vol.22

2007-08-27 10:44:23 | Weblog
「風林火山」

「登場人物」「第22弾」

「馬場信春」(ばばのぶはる)

「生年」に関しては
「永正11年(1514年)とも
「永正12年(1515年)とも言われる。

「馬場家系図」によると「馬場氏」は
「清和源氏」の中の「摂津源氏「源頼光」の
「ひ孫」の「源仲政」(馬場仲政)を
「遠祖」とする「源姓の氏族」
「摂津源氏」の「一派」である「美濃源氏」の
「土岐氏の祖」となる「源光信」(土岐光信)の「孫」で
「美濃国土岐郡」に「土着」した「土岐光衝」の「一族」で
「甲斐国「教来石村」に移り「教来石氏」を名乗る。

「信春」もまた「教来石(きょうらいし)景政」と名乗り
後に「馬場氏」の「名跡」を継いで「馬場信房」と「改名」
さらに「改名」して「信春」となる。
「通称」ははじめ「民部少輔」のち「美濃守」

「武田信虎」の「時代」から「武田氏」に仕える。
「信玄」の「初陣」である「海の口城攻め」に「参加」し
「敵将・平賀源心」を「討つ」という「功績」を挙げたといわれている。
「天文10年(1541年)の「信玄」の
「信虎追放計画」に「参加」していたといわれている。

「信玄」が「武田氏の当主」となり
「その直後」から「諏訪・伊那(いずれも信濃国)攻め」が始まると
これに「参加」して「武功」を挙げた。

このため「信玄」から「天文15年」(1546年)に
「信虎時代」に「信虎」に「当主・馬場虎貞」が「殺害」されたために
「名跡」が絶えていた「甲斐武田氏「譜代の名門」である
「馬場氏」を「継ぐ」ことを許された。
このとき「同時」に「50騎持」の「侍大将」となり
「名」も「景政」から「信房」と改めた。

「その後」も「信玄」の「信濃攻め」に
「参加」して「武功」を挙げたため
「永禄2年(1559年)に「120騎持」に「加増」され
「譜代家老衆の一人」として列せられた。

「永禄4年」(1561年)の「川中島の戦い」では
「上杉軍」の「背後」を攻撃する
「別働隊の指揮」を「任された」と言われている。

「永禄5年(1562年)には
「前年」に「病死」した「原虎胤」にあやかって
「美濃守」の「名乗り」を許され「馬場美濃守信春」と「改名」

「永禄11年」(1568年)の「駿河攻め」にも「参加」する。

「永禄12年」(1569年)の「三増峠の戦い」では
「先鋒」として「北条軍」と戦い「武功」を挙げた。

「元亀3年」(1572年)の「信玄」による
「西上作戦」にも「参加」し
「信玄」から「一隊の指揮」を任されて「只来城」を「攻略」した。
「三方ヶ原の戦い」にも「参加」し
「徳川軍」を「浜松城下」まで「追い詰める」という「武功」を挙げた。

「元亀4年」(1573年)4月」
「信玄」が「死去」すると「山県昌景」と共に
「重臣筆頭」として「武田勝頼」を「補佐」するが
「山県」と同じく「勝頼」からは疎まれたという。

「天正3年」(1575年)5月」の
「長篠の戦い」では「山県」と共に「撤退」を「進言」するが容れられず
「代わりの策」も「勝頼の側近」に退けられるといった「有様」であった。
ただし、これは確たる「資料」に出てくる話ではなく
「後世の作り話」である「可能性が高い」

「同月21日」
「織田・徳川連合軍」との「長篠の戦い」では
「武田軍右翼の中核」に配されるが
「味方」は「敵の防御陣」を「突破できず」にいた。
元々数で劣る「味方の攻勢」が長続きする訳がなく
「次第」に「崩れだした「武田軍」は
「有能な人材」を次々と失い「戦線」は「崩壊」
「大敗」を喫した「勝頼」が「退却」するのを見届けると
「殿軍」を務めていた「自身」は
「反転」して「追撃」の「織田軍」と戦い「戦死」した。

『信長公記』に「馬場美濃守手前の働き、比類なし」と
「評」される「最期」だった。
「享年61」

「豊川」(寒狭川)沿いの「出沢」(すざわ、新城市出沢)が
「戦死の地」とされており「石碑」もある。

なお「墓所」は「出沢」ではなく
「長篠城址」に近い
「新城市長篠字西野々」の「住宅地」にある。

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