元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「山猫は眠らない」

2018-05-12 06:25:21 | 映画の感想(や行)

 (原題:SNIPER)92年作品。比較的低予算の小品だが、キレのいいアクション編で楽しめる。特に、使用される銃火器類、およびその扱い方に対しての粘り着くような描き方は、その手のマニアにとってはたまらないだろう。また、甘さを押し殺したダンディズムの造出にも抜かりは無い。

 米軍のベテラン狙撃手であるトーマス・ベケットは、パナマとコロンビアとの国境近くのジャングルで、若手軍人のリチャード・ミラーと共に麻薬組織のボスであるオチョアと政権を狙うアルバレス将軍を“始末”する指令を受ける。将軍の農園に忍び込んだ2人はオチョアを仕留めることには成功するが、敵の逆襲を受けて将軍は取り逃がしてしまう。一度は撤退した2人だったが、そこへ武装ゲリラが現れ、ベケットを拉致する。恐怖に負けそうになっていたミラーだが、何とか自分を取り戻し、ベケットを救うために単身農園に乗り込む。

 ライフルから発射される銃弾をアップでとらえたショットが挿入されるが、これがなかなか効果的だ。別に手法としては新しくはないが、それでも観る者の目を奪うのは、グダグダ台詞を並べるよりも一発の銃弾で全てを語ってしまうようなドラマの組み立てが成されているからだ。それらが表現するものは、ベケットのプロとしての矜持、そしてミラーの意地である。

 ライフルに取り付けられたスコープから覗く映像の扱いに至ってはさらに顕著で、一発で標的を捉えるベケットの視線に対し、ミラーは逡巡する。だが、やがて迷いがなくなるあたりにミラーの成長を暗示させる段取りはさすがだ。もちろん、やたら長い回想シーンが挿入されることや、蕩々と作戦の概要が述べられることも無い。また、ベケットの首にぶら下がっている相棒たちの形見である認識票の束や、彼が捕らえられる前に砂の中に落としていく最後にひとつ残った弾丸など、小道具の処理も上手い。

 ルイス・ロッサの演出は淀みがなく、1時間40分というタイトな上映時間も相まって、凝縮されたドラマを堪能出来る。主演のトム・ベレンジャーとビリー・ゼインは好演。“ベテランと若手”という組み合わせは定番ながら、決してマンネリに陥らないパフォーマンスを発揮している。ビル・バトラーのカメラが捉えた密林の濃厚な風景も良い。
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「パシフィック・リム:アップライジング」

2018-05-11 06:30:16 | 映画の感想(は行)
 (原題:PACIFIC RIM UPRISING)前作に比べると、大幅に劣る出来。作り手はどうして第一作があれだけウケたのか理解せず、観客層を広げることばかりに気を取られ、結果として凡庸極まりないSF活劇に終わっている。もちろん、監督が交代したのも無関係ではないだろう。

 人類が巨大ロボット“イェーガー”を駆使して深海からの侵略者を撃退してから10年が経ち、地上には平穏が訪れていた。今は亡き防衛軍の隊長スタッカーを父に持つジェイクは、ドロップアウトしてヤクザな商売に手を染めていたが、“イェーガー”を密かに“自作”していた少女アマーラと出会ったことをきっかけに、義理の姉である森マコと再会する。マコに説得されて、ジェイクは一度は辞めた“イェーガー”のパイロットとして軍に復帰。そんな中、操縦者不明の“イェーガー”が突如として上陸して暴れ始める。それはエイリアンの再襲来の前兆だった。やがて巨大怪獣が東京に上陸し、ジェイクたちは必死の抗戦を試みる。



 前作の、日本のロボット・アニメにオマージュを捧げたような仕掛けやエクステリアはどこにも見当たらない。パイロットたちは“スムーズに”ロボットに乗り込んで、粛々と操縦に勤しみ、軽やかに“イェーガー”と同じボディアクションをする。出撃までの仰々しい段取りは端折られ、武器や必殺技の名前が使用前に高らかに宣言されることもない。

 ロボットと怪獣とのバトルを、ただ派手に映し出せばいいのだろうと割り切っているようで、観ていて何とも釈然としない気分になる。そして、肝心の活劇シーンも思ったより多くはない。

 各登場人物も十分に描き込まれておらず、ジェイクがどうして反発して道に迷っていたのか分からないし、またなぜ簡単に軍に戻るのか判然としない。メカニックの技術以外取り柄が無いと思われたアマーラが、どういうわけかパイロットとして第一線に配属されるし、何より大した理由もなくマコが序盤早々と“退場”してしまうのは愉快になれない。



 舞台が東京になる終盤は、ハリウッド名物“えせ日本”が炸裂(笑)。都心の近くに富士山(噴火中)がそびえ立ち、街並みには怪しげな中国語風の表記が満載だ(爆)。スティーブン・S・デナイトの演出は覇気がなく、前作のギレルモ・デル・トロ監督の足元にも及ばない。

 主演のジョン・ボイエガをはじめ、スコット・イーストウッド、カイリー・スパイニー、イヴァンナ・ザクノといった面子は“華”がない。菊地凛子は大した見せ場もないままいなくなるし、ジン・ティエンやマックス・チャンといった中国系キャストも、出番が多い割には印象に残らない。新田真剣佑に至っては、出ていたことも失念してしまった。ラストは続編の製作を匂わせるような処置だが、この分ならばパート3が公開されても観る気は起きない。
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「ラブレス」

2018-05-07 06:20:11 | 映画の感想(ら行)

 (英題:LOVELESS)題名通り、愛無き人々の悲しき“生態”を容赦なく描き、観る者を粛然とさせる。しかも、決して暴露趣味一辺倒の作劇ではなく、この八方塞がりの状態に対する効果的な“処方箋”をも暗示しているあたりポイントが高い。今の時代にこそ観るべき秀作だ。

 モスクワの大手企業で働くボリス(アレクセイ・ロズィン)と、美容院を経営する妻ジェーニャ(マルヤーナ・スピヴァク)は離婚協議中だ。2人の仲はとっくの昔に冷え切っており、それぞれ別に愛人がいて、ボリスに至ってはパートナーとの間にもうすぐ子供が生まれる。ただし、ボリスとジェーニャの間には12歳の一人息子アレクセイがおり、通常は2人のうちいずれかが親権を持つことになるのだが、正直どちらもアレクセイを邪魔な存在としか思っていない。

 ある日、朝学校に出掛けたはずのアレクセイが行方不明になってしまう。成り行き上、ボリスとジェーニャは息子を探さなければならない。だが、警察はただでさえ多い失踪者にいちいち構っているヒマはなく、まったくアテにならない。手をこまねいているうちに、時間ばかりが過ぎてゆく。

 “愛の反対は憎しみではなく、無関心である”と言ったのはマザーテレサだが、まさしく本作には冷えたコンクリートの塊のような重く巨大な“無関心”が横たわっている。ボリスとジェーニャは離婚寸前とはいっても、本当は最初から愛情なんか存在せず、アレクセイが出来てしまったので仕方なく結婚したのだ。

 ボリスの周囲の人々、特に職場の同僚は他人の噂話ばかりするが、実は当人達に興味なんて無いし、ボリス自身もまったく関心を持たない。ジェーニャはボリスを罵倒する時以外はSNSにハマっていてロクに会話もせず、彼女の愛人は家庭を捨てることを恥とも思っていないし、母親は完全なる社会的不適合者だ。こんな夫婦が上手くいくわけがなく、間に挟まれたアレクセイは泣くことしか出来ない(観ているこちらも泣きたくなる)。

 2人は息子を探してはみるものの、内心ではこのまま子供が消えてしまえばいいと思っている。また、ボリスとジェーニャは今後新しい相手と生活しても、いずれは似たような事態に遭遇することは目に見えているのだ。そして、この大いなる悪徳である“無関心”の集合形態が国際的な事件として表現される終盤の処置は、まさに身を切られるようなインパクトをもたらす。

 そんな冷え冷えとした状況にあって、捜索を買って出るボランティア・グループの活躍は一種の救いになっている。彼らは一銭の報酬も受け取らず、警察よりも数段上の組織力とノウハウを持ち、システマティックかつ人道的に事に当たる。愛情が枯れ果てた世の中にあって、現状を打破するのはこういう無私の精神であると言わんばかりだ。

 アンドレイ・ズビャギンツェフの演出は求心力が高く、最後まで目を離せない。彼としても「父、帰る」(2003年)に並ぶ業績であろう。登場人物達の心象を表すような、しんしんと降り積もる雪の情景。ミハイル・クリチマンのカメラによる映像は素晴らしい。エフゲニー・ガリペリンの音楽も要チェック。今年度のヨーロッパ映画の収穫だ。
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風が強い日のサッカー観戦は辛い(笑)。

2018-05-06 06:24:36 | その他
 去る5月3日に、福岡市博多区の東平尾公園内にある博多の森球技場(レベルファイブスタジアム)にて、サッカーの試合を観戦した。対戦カードはホームのアビスパ福岡とモンテディオ山形である。

 当日は晴天だったが、気温は低い。しかもかなり強い風が吹いていて、寒さを堪えるのに苦労した。そのせいか、序盤から両チームとも守備的。何しろ、ロングパスを出しても風が邪魔してうまく通らないのだ。かなりのスローペースになったものの、アビスパは少しずつチャンスを増やして前半を終了。後半8分にはフォワードのドゥドゥが切り込み、最後は石津がゴールを決める。



 だが、後半の中頃にはアビスパは攻め疲れたのか、動きが鈍ってきた。するとあっさりと同点に追いつかれ、その後は防戦一方になる。引き分けで終わるかと思われたが、ロスタイムで途中出場の枝村が劇的にヘディングシュートを決め、勝ち越しに成功。これでこの時点で3位に浮上した。

 最後まで諦めなかった選手達と、井原監督の粘り強い采配は賞賛に値しよう。また、ゲストのHKT48のメンバーの応援によるところも大きいと思われる(違うだろ ^^;)。とにかく、ここまで12試合を戦って、負けが2つしかないというのは凄い。



 連休とあって、多くの観客が詰めかけていたが、残念ながら1万人は超えてはいない。私が観戦していたバックスタンドは満員に近いが、メインスタンドにはあまり客が入っていないことが気になる。メインスタンドの指定席はチケットは高いので仕方が無いのかもしれないが、運営側はもう少し善処して欲しいというのが正直な感想だ。。
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「めぐり逢う朝」

2018-05-05 06:29:39 | 映画の感想(ま行)
 (原題:TOUS LES MATINS DU MONDE)91年フランス作品。“音楽は他人のために奏でるものではない。もちろん、神のためのものでもない。音楽は死せる人々に聴かせるためにある”。これは主人公サント・コロンブのセリフだが、自己の感受性を砥ぎ澄まし、純粋に芸術に対峙させなければ真の音楽は得られないと考えるコロンブの厳しい生き方があらわされている。

 17世紀フランス。ヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオル)の名手にして高名な作曲家であるサント・コロンブは愛する妻を病気で失い、その死に目にも会えなかった。性格がいっそう峻厳になり、人にあまり会わず、外出もせず、森の奥にある屋敷で二人の娘とひっそりと暮らしている。敷地の中にある小屋で演奏と作曲に明け暮れる毎日。ときおり現れる妻の亡霊に話しかけることだけが唯一の楽しみである。

 ある日、ヴィオル奏者を目指す若者マラン・マレが訪ねて来て、弟子にしてくれと言う。マレは技量において最高レベルにあったが、演奏にいまひとつ迫ってくるものがない。それでも無理矢理に弟子入りしたマレは、名声を野心的に求めるあまり、コロンブの長女と関係を結び、彼女の手引きで床下に忍び込んでは師匠のテクニックを盗もうとする。やがて師匠の怒りにふれ、マレは破門される。その後、宮廷音楽家として成功した彼は、用済みになった長女を捨て、宮廷に確固として地位を築いていくのだが・・・・。



 年老いたマレの顔のアップから始まる。偽善を悔やみ、過去のあやまちを現在の弟子たちに話すマレの苦渋に満ちた表情。このシーンを見て誰でも思い浮かべるのは、やはり音楽家を描いた「アマデウス」の冒頭場面だろう。コロンブとマレの関係は、モーツァルトとサリエリのそれと似ているかもしれない。

 しかし決定的に違うのは、「アマデウス」ではモーツァルトの天才ぶりとサリエリの凡庸さとの対比を際立たせて描いたのに対し、この映画の二人はともに天才であるということ。またモーツァルトがサリエリから何も影響を受けなかったのに比べ、ストイックで楽譜も残そうとしないコロンブもいつしか世俗的名声を求めるマレの感化を受け、自分の作品を世に出したいと思うようになることだ(そのおかげで現在我々はコロンブの作品を楽しむことができるのである)。

 神に選ばれた天才モーツァルトと凡人サリエリは最後まで違う人種であり、お互い心の底から理解し合うことはない。しかし、コロンブとマレは性格と表現方法が正反対であるにもかかわらず、芸術に対する真摯な態度など、根は同じ人間である。そしてマレはコロンブを音楽家として理解し尊敬している。また(程度の差こそあれ)その逆も真であり、つまりはコインの裏表としてのふたりの相克を描く作品と言えるかもしれない。

 孤高と野心、厳格さと快楽、信頼と裏切り、罪と贖罪、相反する二つの事象を並立させる構図により、この映画は主人公ふたりの愛憎劇を通して、人間性の光と影といった深い二重構造を描き出している。そしてこの構造は、人間性のみならず、音楽と言語、音楽と絵画、さらに言えば具象性と抽象性、形而上と形而下といった芸術の真髄に関わる問題にまで鋭く迫っていく。

 “言葉で語れないものを語るのが音楽だ”、コロンブは力を込めて語る。音楽は時間の芸術だと言われる。美しいと思う瞬間はその場限りで、それはただ過ぎ去って行く。言葉・文字という“記録方法”を持つ文学とは決定的に違う。当然、絵画とも異質だ。だからこそ、“音楽は技巧の羅列ではない。楽譜は単なる指標であってその心までは伝えない。その瞬間瞬間が生み出す即興性こそが命だ”というコロンブの言葉が真実味を帯びてくる。

 では総合芸術と呼ばれる映画とはいったい何であろうか。その真の姿がラストシーンに集約されている。創造と破壊も、光と闇も、現実と超現実も、すべてが調和する完全な空間こそが映画ではないか。そういう作者の主張がヴィヴィッドに伝わってくる、見事な幕切れだと思う。



 それにしても、この映画の美術、映像、音楽。素晴らしいの一言だ。ほとんどのショットが当時の名画を思わせる色彩の優雅さと構図の確かさで観る者を圧倒する。コロンブが画家に描かせた、亡き妻が夜ごとあらわれる部屋の静物画が、実際の部屋の風景とシンクロしていく場面の映像処理などは息を呑んだ。

 そしてジョディ・サバールによる音楽は、サバールの自作とコロンブ、マレの代表作を散りばめた極上のもの。ヴィオルというあまりポピュラーではない楽器のきれいな音色を存分に味あわせてくれる。演奏も実に美しい(思わずサントラ盤を買ってしまった私である)。コリンヌ・ジョリの衣装も見事なものだ。

 演技面では、コロンブを演じるジャン=ピエール・マリエルの存在感が光る。信念に生きる孤独な音楽家そのものである。マレ役のジェラール・ドパルデューは、いつものアクの強さを抑え、鼻もちならないイヤな奴に思われがちなマレという人物を、彼なりに懸命に生きたのだと納得させるだけの演技力を発揮している。若い頃のマレにはドパルデューの息子ギヨーム・ドパルデューが扮しているのが御愛敬。コロンブの長女を演じるアンヌ・ブロシェは「シラノ・ド・ベルジュラック」ではあまり感心しなかったが、ここでは、もう痛々しいほどの熱演を見せており、作品の厚みに一役かっている。監督はアラン・コルノー。92年セザール賞7部門独占。観る者を粛然とさせる、フランス映画の傑作である。
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ライジングゼファー福岡は、強い。

2018-05-04 06:45:55 | その他
 去る4月29日、プロバスケットボール(Bリーグ)の試合を見に行った。対戦カードは地元チームのライジングゼファー福岡と、愛媛オレンジバイキングスである。場所は福岡市博多区東公園にある福岡市民体育館。初めて行ったが、地下鉄の駅(千代県庁口)とほぼ近接しており、交通の便がとても良いのは有り難い。



 今期からB3リーグからB2リーグに昇格したライジングゼファーだが、すでに西地区の優勝を決めている。今後おこなわれるプレーオフの結果次第では、来期から一部リーグに上がるかもしれない。観戦したのは今期のホーム最終戦だ。

 試合は序盤からライジングゼファーのペース。高い決定率で点差をどんどん広げていく。第三クォーターからはやや疲れたのか、オレンジバイキングスの追い上げを許す場面もあったが、それでも中盤から点差が一桁になることはなく、結果は88対71で勝利。まさに横綱相撲である。

 今回痛感したのだが、バスケットボールの試合の見物は、野球やサッカーのそれより数段疲れることだ(もちろんそれは心地良い疲れである)。野球場やサッカースタジアムでも公式応援団の皆さんは跳んだりはねたりで疲れるのだろうが、それ以外の一般観客の“運動量”はそれほどでもない。しかし、バスケットボールは、客席全体を応援団として“機能”させるため、饒舌なMCのしゃべりと煽りによって、試合中全員ずっと手拍子足拍子を続けなければならないような雰囲気が横溢する。



 それは展開がスピーディーなバスケットボールの“特性”と言えるだろう。さらに、至近距離でチアリーダーのおねーさん達が笑顔で盛り上げてくれるので、こちらとしても張り切らざるを得ない(大笑)。

 福岡市民体育館は前回足を運んだ九電記念体育館ほどではないが、かなり古い。そこで今年(2018年)末に福岡市東区香椎照葉に新しく福岡市総合体育館がオープンする予定で、たぶんバスケットボールの試合もそこで行われるのであろう。ぜひともまた出掛けたい。
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