元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「グレムリン2 新・種・誕・生」

2009-09-03 06:33:24 | 映画の感想(か行)
 (原題:Gremlins 2: The New Batch )90年作品。下劣な悪ふざけの連続に気が滅入ってしまう映画である。前作(84年製作)から6年、ニューヨークの某大手メディア企業で働くビリー(ザック・ギャリガン)とケイト(フィービー・ケイツ)の恋人カップル、慣れぬ都会生活にとまどう二人の前に、あのギズモが登場。例によって、ニューヨークはグレムリン・パニックに巻き込まれていく。

 前作はいろいろ批判もあったけど、私は好きな映画だった。監督ジョー・ダンテの異常な趣味と、たたみかける演出による見せ場の連続、スピルバーグ印なのにスピルバーグを完全にバカにしたような作風も痛快だった。しかし、今回はまるでダメである。たとえて言うなら、劇映画ではなく、テレビのコメディ番組のノリで作っている。

 最初から終わりまで、パロディとおちゃらけのオンパレード。舞台が超高層ビルという点からして「ダイ・ハード」を意識しているし、予告編でもおなじみの「ランボー/怒りの脱出」のパロディや「リトル・ショップ・オブ・ホラーズ」「SFボディ・スナッチャー」「蜘蛛女のキス」などからのパクリが性懲りもなくぶちこまれ、さらにハルク・ホーガンの登場シーンに至っては、ほとんどあきれてしまう。いくらパロディだらけといっても、それが面白ければ文句はないが、これがまあどれもこれもハズしっぱなしのシラけっぱなしなんだから困ったものだ。途中からアホらしくなってしまう。

 SFXだけは前作より格段の進歩。ギズモもグレムリンも生きているとしか思えない精巧さである。ただ、それだけにグロテスク度も大幅アップ。この映画を観ながらの飲食はちょっとキツイと思う。アメリカでは大コケ。封切り当時には平日とはいえ夏休みの昼間の劇場もそれほど客は入っていなかったことを思い出す。ま、映画の出来からしてしょうがなかったとは思うが・・・・。
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「子供の情景」

2009-09-02 06:30:30 | 映画の感想(か行)

 (原題:Buda as sharm foru rikht)何と言っていいのか、評価するのに困る映画だ。イランの監督一家“マフマルバフ・ファミリー”の末娘ハナの長編劇映画デビュー作。バーミヤンに暮らす6歳の少女バクタイが隣家の少年が勉強しているのを見て“私も学校に行きたい!”と決心し、一人で学校を目指して歩き出すという話だ。イラン映画得意の(子供をダシに使った)“はじめてのお使い”のパターンを踏襲しているが、ここでの舞台は戦争の傷跡が生々しいアフガニスタンである。いつものハートウォーミングな物語とはほど遠い、生臭い世界が展開する。

 バーミヤンといえば、少し前までイスラム原理主義のタリバンが支配していた地区であり、2001年に世界遺産の巨大石仏像が破壊されたことも記憶に生々しい。米国のアフガン侵攻によりタリバン派は追いやられたが、その影響は消えることはない。作者はその状況を子供同士の関係に置き換えてエゲツなく綴ってゆく。

 バクタイの行く手を阻むのは“タリバンごっこ”に興じるガキどもである。彼らはバクタイがやっとの思いで手に入れたノートを“女に勉強は不要だ!”とばかりに引き裂いてしまう。さらに岩山の洞窟に女の子達を“捕虜”として幽閉するという、シャレにならないことまでやってのける。

 バクタイの顔つきはアラブ系のそれではなく、目が細くて明らかに内モンゴル系の血筋を引いたハザル人だということが分かる。ハザル人はタリバン支配時に弾圧された種族だ。男尊女卑の路線を推し進めたタリバン政権下では、女性が教育を受けることを禁止したこともあり、つまりバクタイは女の子でしかもハザル人という、一番の社会的弱者ということになる。本作はそんな彼女の“学校に行きたい”という素朴な想いを無惨にも踏みにじる、社会の歪みを告発する。

 冒頭とラストに挿入される石仏の破壊シーンが象徴するように、この世に理不尽が有る限り仏陀は恥辱のために崩れ続けるのだ・・・・という重いテーゼが画面を横溢する。ただし、どうも観ていてあまり面白くない。それはドラマツルギーが図式的であるせいだ。バクタイが遭遇する“災難”がアフガニスタンの現状を表しているというのは分かるが、どうも気負いばかりが空回りしている印象を受ける。もっとエンタテインメントに振られたスマートな作りが出来なかったのだろうか。

 監督の父親のモフセン・マフマルバフならば、もっと観客に対する喚起力の大きい映画作りをするはずだ。とはいえ、監督のハナ・マフマルバフは撮影当時19歳であり、この年齢でこれだけのものを作ったのは凄い・・・・とは言えるのだが、ハナの姉のサミラは18歳で「りんご」という快作をモノにしており、演出者の若さを殊更クローズアップできないのが辛いところだ。
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「凶弾」

2009-09-01 06:29:32 | 映画の感想(か行)
 82年松竹作品。今はテレビのバラエティ番組などで“お茶目な気象予報士(兼タレント)”としてよく見かける石原良純だが、デビューした時はその毛並みの良さから“第二の裕次郎”みたいな売られ方をされ、俳優としての将来を嘱望されていたようだ。映画初出演の本作からしていきなり主演である。

 福田洋のノンフィクション「凶弾、瀬戸内シージャック」の映画化で、監督は数々の快作をモノにした活劇の職人派・村川透だ。ところが、実際観てみると彼らしい持ち味はまったく出ておらず、まるでふやけた太陽族映画のエピゴーネンみたいな印象しか受けない。まあ、いくら“期待の新人の主演作”とはいってもこの映画は野村芳太郎監督の「疑惑」の添え物上映だったので、作る側も気合が入っていなかったのだとは予想するが・・・・。

 世間を震撼させた瀬戸内海のフェリーボートの乗っ取り事件を題材にした実録ものであるが、石原扮する犯人グループのリーダーが一連の犯行に手を染めるきっかけとなった警官射殺事件のくだりからしていい加減である。職務質問してきた警官が常軌を逸するほど凶悪で、主人公に感情移入させようという作戦かもしれないが、不自然極まりない。

 回想シーンでの少年院でのエピソードは陳腐と言うしかなく、まるで学芸会。高樹澪演じる謎の少女の存在も取って付けたようだ。さらには乗っ取られる船の船長(若山富三郎)は意味もなく犯人グループにシンパシーを抱き、クライマックス近くになると“このオッサン、実はホモじゃないのか”と思うほど主人公にべったりである。

 だいたい、冒頭タイトルのバックに出てくる主人公達の赤面ものの描写からして脱力だ。男ばかりが野山で楽しそうに戯れる場面を、スローモーションで思い入れたっぷりに映している。大昔の日活青春映画でもやらなかったような醜態ではないか。

 肝心の石原は、残念ながらまったく魅力がない。一応不良少年の役どころだが、コイツのどこが不良かと思わせる。デビュー出来たのも父親の石原慎太郎の肝煎りに過ぎなかったのだろう。本人もそれを自覚してか、これ以降は“内面的な演技が必要とされる役”には進出せず、現在のような色ものキャラに徹することで芸能界に生き残ることが出来た。その意味では先見の明だけはあったということだろう。
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