元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「外科室」

2009-09-13 20:46:56 | 映画の感想(か行)
 92年作品。泉鏡花の原作を今回映画化したのは、あの坂東玉三郎(本人は出演していない)である。これが監督デビュー作。胸を患う伯爵夫人(吉永小百合)は外科手術の際の麻酔をかたくなに拒否する。彼女には心の中に秘めていたことがある。麻酔を打つと、うわ言で口にしてしまうかもしれないからだ。9年前、小石川の庭園で出会った美青年(加藤雅也)に心を奪われ、青年もまた彼女を忘れられなくなる。実はその時の青年が今日の手術を担当する外科医なのだ・・・・。

 物語は青年の友人である画家(中井貴一)のナレーションによって進んでいく。音楽はラフマニノフのチェロ・ソナタ、撮影は坂本典隆、スチール写真は篠山紀信。上映時間が50分の小品である。

 結論を言うと、出来としてはイマイチだ。冒頭の満開の桜、中盤の咲き乱れるつつじ園の描写、対して病院の冷え冷えとした雰囲気のとらえ方など、絵としては本当に美しい映画だとは思うが、玉三郎監督は映像をパターンとして描くことは出来ても、ストーリー・テリングの才はこの映画を観る限り、あまりないようだ。恥ずかしい話だが、私はナマで歌舞伎を観たことがない。だから歌舞伎の舞台演出が映画の演出とどれだけ違うのか、ここで論じることは出来ない。しかし、この映画の出演者の演技、セリフ廻しなどが異様に“硬い”のは、“型”をつくることが優先する歌舞伎の影響なのだろうか・・・・とも邪推したくなる。

 カメラが固定で、切り替えが少ない長回しを多用するのは、明らかに舞台出身のスタッフがよくやる手法であるが、物語や登場人物の心理の動きがあまりない場面で使いすぎる点が目についた。結果として50分の作品ながら中盤で退屈したのも事実である。鏡花は「帝都物語」で玉三郎が演じた役でもあり、思い入れが相当強かったとは思うが、吉永小百合の熱演をもってしても、鏡花の耽美的・幻想的な世界を堪能するには至らなかったのは残念だ。

 むしろこの映画は公開当時の興業形態を注目したい。50分の一本立てで、入場料金は千円均一。客の回転が早く、興業側としては悪くない商売だと思うが、本作のような話題作に限っての適応しかできないだろう。それにしても50分で千円は少し高い。今から考えると、800円か700円がちょうど良かったと思う。
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「女の子ものがたり」

2009-09-12 10:26:50 | 映画の感想(あ行)

 観ていて気分を害した。ヒロインの子供時代に扮した森迫永依と、高校生から20代前半の頃を演じる大後寿々花の“外見”がどうしようもないからだ。断っておくが、別に見てくれに難のある女優を起用してはイケナイと言っているのではない。それ相応のドラマ的な必然性と達者な演技さえカバーしておけば、どこからも文句は出ないのだ。

 しかし、彼女たちの成長した姿が、深津絵里のようなチャーミングなルックスを備えた女性だというのは、絶対納得出来ない(大笑)。特に出演時間が長くて実質的な“主演”である大後の御面相は、とてもスクリーン上でのアップに耐えうるものではない。昨今は嬉しいことに日本映画界での若手女優の層が厚くなり、大後よりも数段可愛くて演技力もある人材がいくらでもいるのに、いったい何を考えて製作側は彼女を起用したのか理解に苦しむ。

 さて、キャストうんぬんを別にしても、これはどうにも気勢の上がらない映画である。それは、登場人物全てが“頭がよろしくない”からだ。主人公は36歳になる女流漫画家だが、10年前に突出した作品を一本モノにして以来、ずーっとスランプに陥っている。浮き沈みの激しい漫画家稼業とはいえ、満足出来る作品を描けない状態に対する自己分析を10年間も怠っているのは、いくら何でもアホではないか。

 映画はふとした拍子に彼女が昔のことを思い出し、それから再起の糸口をつかむ様子を描いているが、過去を回想して故郷を思うなんてことは10年の間にいくらでもあったはずだ。それがどうして今回だけ特別なのか、まったく腑に落ちない。

 彼女に絡んでくる編集部員もまったく風采が上がらず、ヒロインが若い頃に連んでいた二人の女友達に至っては、悲しくなるほど愚かだ。彼女たちは自らの思慮の浅さにより、最後まで貧乏くじを引きまくる。もちろん、愚昧な人間達を描くこと自体は問題はない。でも、本作の居心地の悪さは、その“愚かさ”に関して作り手がまったく“共感”も“理解”も示していないことだ。常時“上から目線”で、登場人物達のスマートならざる所業を冷笑するのみ。

 ならば作者はどの程度の“賢さ”を備えているというのか。骨太なドラマツルギーをも形成出来ない者が、利いた風な口を叩くなと言いたい。この監督(森岡利行)は無能である。舞台になっている愛媛県の田舎町は風情はあるが、撮影が凡庸なので画面に奥行き感が出ていない。おおはた雄一の音楽も印象に残らず、これは凡作と言わざるを得ない。
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「神さまへの贈り物」

2009-09-11 06:29:20 | 映画の感想(か行)
 96年のアジアフォーカス福岡映画祭で観た映画。監督はそれ以前にも「ザ・ブーツ」「チック・タック」の上映でこの映画祭でもお馴染みとなったモハマッド=アリ・タレビ。本作は日本資本による製作で、世界市場をもにらんだ出品となっていた。

 テヘランの下町に住む4歳の女の子ジェイランは公園に遊びに行きたくてたまらないが、母親は家事で忙しく、姉たちは学校に行っており、誰も相手にしてくれない。近所に住むマスメおばあさんは米の配給券を持っているのに息子が多忙で取りに行ってもらえないので途方に暮れている。ジェイランはおばあさんに同行して手伝うことを遊びに行く口実にして外出することになる。ところが、たどり着いた店でなんと30kgもの米を貰ってしまったおばあさんは、とても家まで運ぶことができない。果たして二人は無事に帰ることができるのだろうか・・・・。

 前2作にもまして素晴らしい出来だ。何より作者が登場人物たちを信じきっているのが快い。キャストはマスメばあさんを除いて全員が素人で、イラン映画得意の“ドキュメンタリー手法をフィクションの中で展開する”方法が全開状態で進むが、窮地に立った主人公二人を周囲の人々がイヤな顔ひとつせず助けてくれるパターンの繰り返しという、フツーの映画ならウソ臭くて見ていられないシチュエーションが、何と自然で温かく描かれていることか。

 おばあさんのメガネが溝に落ちてしまって、近くを通りかかった男の子(「チック・タック」の主人公)に頼んで取ってもらうシーンの、思わず微笑んでしまうようないじらしさ。一見無骨なバイクの男(実は教師)が二人を助けた後もフォローするように背後からついてくる場面のホッとする安堵感。たくさんの袋に分けて詰めた米を、通りがかりの小学生たちが歩道橋を一列になって運んでやるシーンのほのぼのとしたユーモアなど、まさに“渡る世間に鬼はなし”といった感じの楽天的な展開が観客の心の琴線に触れてくるのだ。

 もちろん、牧歌的な市井の人々の優しさを綴っただけの作品ではなく、外に出られない幼児や老人の欝屈した気分を、戦争後のイラン社会に投影していることは確かである。でも、勇気を持って外に出れば何とかなる。希望を持って生きれば皆優しく接してくれる。ラストでおばあさんは寛大にも、苦労して持ち帰った米を近所の人々にふるまってしまうが、作者はこのヒロイン像を作るにあたり、往年の日本映画の傑作群の女主人公を参考にしたという。

 そういえば、イラン映画は通算50本近く観ているのだが、根っからの悪党が登場する映画は少ない。実際のイラン社会がこんな善人ばかりだとは思わないが、映画が“夢”を創造するメディアであるなら、こういう人間関係のユートピアが、人々の“理想”であり映画はそれに奉仕するものだ、という健全な図式が成り立っているのかもしれない。
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「グッド・バッド・ウィアード」

2009-09-10 06:21:36 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Good, the Bad, the Weird)主役3人のキャスティング以外は、見るべきものがない映画だ。本作の元ネタである「続・夕陽のガンマン」(66年)は未見なので、それと比べて作劇面でどうアレンジされているのかは知らないが、随分と雑な作りなのは間違いない。

 1930年代の満州を舞台に、朝鮮半島から来たスゴ腕の賞金稼ぎと凶悪なギャングのボス、そして抜け目のない泥棒とが宝(?)の地図をめぐって組んずほぐれつの争奪戦を展開。それに地元の暴力団や支配者であるところの日本軍も絡んできて、ワケの分からないバトルに突入するという設定だけ聞けばとても面白そうだ。しかし、作り手はそのシチュエーションだけで満足してしまったフシがある。バタバタと活劇が場当たり的に続くだけで、大向こうを唸らせる骨太のドラマは最後まで生まれなかった。

 満州は表向きは“独立国”だったが、実は日本(関東軍)の傀儡である。同じように日本領であった朝鮮から流れてきた3人にとって、何らかの屈託や民族に対する思いなどを抱いて当然のはずだが、そんなのは完全に切り捨てられている。抗日戦線やその指導者などを絡めても物語に奥行きが出来たと思うのだが、それも無し。

 もちろん、これらの歴史的背景をしつこく描けと言っているのではない。そんなことをするとストーリーが鈍重なものになる。ただ、スパイスとして良い匙加減で挿入することも可能だったはずであり、それを怠ったのは作者の手落ちとしか言いようがない。

 ただし、主演の3人は実に良い。賞金稼ぎに扮するチョン・ウソンは今回もしつこいほどカッコつけている。ただしそれがサマになっているのはサスガだ。ライフル銃をクルクル回しながら日本軍めがけて単身突撃していくシーンは“そんなことしてたらスグに撃たれるだろ”との突っ込みをものともせず(笑)、見事に女性層(ウチの嫁御も含める ^^;)にアピールしたようだ。

 先日観た「G.I.ジョー」に引き続き悪役で登場のイ・ビョンホンも切れ味抜群だ。今後はこの路線を極めて欲しい。コソ泥役のソン・ガンホは、冒頭タイトルで一番先に名前が出ることからも分かるように、この映画の“主演”なのである(爆)。いつもながらの剽軽な存在感で場を盛り上げていた。ただし今回の日本の興行宣伝ではイ・ビョンホンばかり強調されていたのは、やはり三枚目キャラの悲しさか。

 監督は「反則王」などのキム・ジウンだが、展開は大雑把で一つ一つのシークエンスが必要以上に長い。アクション場面に目新しいアイデアが網羅されているわけでもなく、凡庸さを印象付けるだけに終わった。要するに、主役3人に特別の思い入れがある観客以外には、わざわざ劇場で鑑賞する意義は見出しにくいシャシンだ。
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「マスク」

2009-09-09 06:31:39 | 映画の感想(ま行)
 (原題:The Mask)94年作品。先日テレビ画面で再見したが、やっぱり面白い。作りに迷いがないというか、徹底的に観客が欲しているものだけをそのまま差し出す潔さ。アニメ的描写が目立つ映画だが、全体的にディズニーの品の良さよりも昔のワーナーやMGMでやってたカートゥーンの下品さ(?)を基本にしている。「トムとジェリー」がテレビ放映されていた頃、30分3本立ての中で2本目のドルーピーや熊のバーニーが活躍するアレだ。同じようにワーナー製カートゥーンを下敷きにした「ロジャー・ラビット」がまだ人間のキャラクターとアニメのそれが分けられられていたのに対し、この作品では人間の登場人物がアニメ的に変身する。この意味で実に画期的な映画だ。

 この映画で一番たまらない点というと、主人公がマスクをかぶってスーパー・ヒーローになると、周囲の人物や環境までもが“マンガ的世界”に突入してしまうこと。「アラジン」に出てきた魔神ジニーや「トイズ」の主人公(あ、どっちもロビン・ウィリアムズだった)がいくらマンガチックだと言っても、それは本人だけの話。周りのキャラクターを巻き込んですべてが非日常ギャグ漫画ワールドに転化させてしまう実写映画は、私の知る限りこの「マスク」が初めてだ。主人公がナイトクラブで大騒ぎする場面。そして警官隊の皆さん全員参加で送る一大ミュージカル・シーン。これを私は“映画における「がきデカ」現象”と勝手に呼んでいる。実写でこれを可能にしたとなると、もはや映画では描けないものはない(金さえあればの話だが)と言い切れるのではなかろうか。

 ジム・キャリーの個人芸はフツーの映画でやるとアクが強くて日本人向けではないが、こういう設定では何をやろうともすべて許されてしまう。そして主人公以上に目立っていたのが愛犬マイロ。ラッシーやベンジーも真っ青の映画史上最高のキャラクターだ。監督は「ブロブ」(88年)のチャールズ・ラッセル。

 あと面白かったのが劇中の女性の扱い。地味で冴えない銀行員の主人公に同僚が勧めるのが、やはり地味でマジメそうな女流ジャーナリスト。本当はハデなクラブ歌手のティナ(キャメロン・ディアス)が好きなのだが“やっぱり地道なキャラクターの自分にはおとなしそうな女がぴったりだ”と自分に言い聞かせて女流ジャーナリストと付き合ったら、こいつがとんだ食わせ者だったという・・・・。

 おとなしそうな女は感じがいいようでいて、反面何を考えているかわからないから気をつけた方がいいという作者の忠告(?)が伝わってきた。まー、私にも似たような経験があるし(えっ?)、なかなか切迫したメッセージを読み取れる映画でもある(^_^;)。
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「96時間」

2009-09-08 06:26:54 | 映画の感想(英数)

 (原題:Taken )何だか、頭が悪そうな映画だ。ギャングに娘を誘拐されたかつての情報部エージェントのおっさんが、単身カリフォルニアからパリに乗り込み、程度を知らない大暴れをするという本作、その設定からして噴飯ものである。

 主人公は昔は秘密工作員として腕を振るったのかもしれないが、今はただの一般市民に過ぎない。それがヨソの国に出掛けて、情け無用の所業の数々実行できる道理なんかないのだ。一応現地の警察は出てくるが、まるで無力。フランス政府の情報部にも出番は与えられていない。まさに愕然とするような御都合主義である。

 しかもこのおっさん、愛する娘を拉致されて頭に血が上っているのか、相手に対してまるで容赦しない。交渉だの駆け引きだのは一切無し。敵を見付けたら、たいていの場合瞬殺。ちょっと情報を持っている奴ならば、捕まえて即拷問。もちろん吐かせた後は惨殺。ピンチらしいピンチもなく、出てくる敵をシューティング・ゲームよろしく殺して殺して殺しまくる。

 このパターンはどっかで見たと思ったら、スティーヴン・セガール主演の「沈黙」シリーズによく似ていることに気付いた(笑)。ただし、少なくともセガール御大には観客を唸らせるフィジカル面での優位性がある。対してこのおっさんは見た目がフツー過ぎる。別に外見に特徴が無くても大向こうを唸らせるようなアクションを展開してくれれば文句はないのだが、これが実に凡庸。メリハリがなく、行き当たりばったりの立ち回りでお茶を濁すのみ。カーアクションも乱闘場面も銃撃戦も“この映画じゃないと観られない”といったレベルには全然達していない。正直、画面内ではバタバタと派手なシーンが連続しているにもかかわらず、中盤以降は眠気を催してしまった。

 さらに盛り下がるのは、誘拐される高校生の娘が、底抜けに馬鹿であること。あれほど親が注意したのに、旅先で知り合った若い男に簡単に滞在場所を教えてしまう間抜けぶりには脱力。ハッキリ言って自業自得だ。しかも演じる女優が大して可愛くない(爆)。

 製作・脚本がリュック・ベッソンである点が興行側のセールスポイントらしいが、彼は映画作家としては“終わって”いる。監督のピエール・モレルとかいうのも、才気のカケラも感じられない。こんなシャシンに付き合わされたリーアム・ニーソンやファムケ・ヤンセンなどの俳優陣も良い面の皮だろう。せめてパリの名所旧跡でも紹介して、観光気分を味あわせてもらいたかったが、それもナシ。要するに、あまり存在価値のない映画である。
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「シカゴ」

2009-09-07 06:16:46 | 映画の感想(さ行)

 (原題:CHICAGO )2002年作品。久々にミュージカル映画の醍醐味を堪能した。20年代のシカゴを舞台に、殺人犯であるヒロインがセンセーショナルな法廷戦術に打って出るだけではなく、スターの座をも射止めてしまうという筋書きは確かに御都合主義に過ぎる。しかしミュージカルは物語が単純でいい加減でなければならない。その分、歌と踊りでカバーして無理矢理に観客を納得させるのがミュージカルの王道だ。

 事実、昔のMGMミュージカルは、話の内容なんてほとんどないのに、あれだけ楽しかったではないか。逆に、アラン・パーカーの「エビータ」が失敗したのは、ストーリーに必要以上に“意味”を持たせようとしたためだ。

 冒頭“5,6,7,8!”というカウントと共に「オール・ザット・ジャズ」が威勢よく始まると、観客をアッという間に目眩くミュージカルの世界に引きずり込む。その絶妙の演出リズムで観る者をノセてしまえばあとはラストまで一直線。それからは“ストーリーがどうの”という小難しい問題は雲散霧消し、映画の焦点はキャストのパフォーマンスと振り付けと楽曲の出来に全て絞られる。そしてそれらをクリアしさえすれば観ている方は大満足なのだ。

 ボブ・フォッシーによる元ネタをテンポ良く綴るロブ・マーシャルの演出も好調ながら、吹き替えなしでのキャストの頑張りは凄い。特にキャサリン・ゼタ=ジョーンズのパフォーマンスは素晴らしく、一人二役で踊ってみせる場面には圧倒させられた。弁護士役のリチャード・ギアはタップダンス等にぎこちなさも目立つが、下着姿での登場と胡散臭さ全開の存在感には嬉しくなる。

 この二人に比べると主演のレニー・ゼルウィガーは線が細いけど、キャラクターと演技力で十分見せてくれる。振り付け面も申し分なく、中でもリチャード・ギアが腹話術師よろしくゼルウィガーを操ってみせるシーンは最高の盛り上がり。とにかく、最初から最後まで見どころ満載の仕上がりで、オスカー受賞も納得の快作だ。
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「ちゃんと伝える」

2009-09-06 06:44:54 | 映画の感想(た行)

 これは良い映画だ。何より、あの園子温監督がこういう“誰が観ても理解出来るヒューマンドラマ”を撮ったことが驚きである。聞くところによると監督自ら父親を看取った体験があるとかで、製作動機としては十分頷ける。とはいっても、そのへんの“難病もの”とは完全に一線を画するアプローチを敢行しており、屹立した作家性を十分印象付けているのはサスガと言うしかない。

 高校の教師でサッカー部の名コーチとしても知られていた父親が突然ガンで倒れる。会社員の息子は母と共に毎日のように病院に父を見舞うが、かねてより体調不良を自覚していた彼もまたガンであることが健康診断の結果判明してしまう。しかも、病状は父親よりも悪く、自分の方が先に逝くかもしれない。両親にも婚約者にも言い出せないまま、家と職場と病院を行き来する日々を過ごす。

 この設定は実にヘヴィだ。撮りようによっては、重くて辛い愁嘆場の連続になってしまうシチュエーションである。しかし本作は描く視点を少し変えてみることで、観る者にいらぬ“負担”をかけず、それでいて普遍性を持った感銘を与えることに成功している。それはタイトル通り、人の生死が情報を“ちゃんと伝える”ことの分岐点になっているという、透徹した考え方だ。

 この映画では登場人物が病気で苦しむ様子はあまり出てこないし、治療を受けている場面さえない。そんなことは描く必要はないのだ。そもそも親しい人が死ぬとなぜ悲しいのか。それはその人が持っている“情報”の提供が隔絶されるからだ。本来ならば有用な“情報”をずっと発信していかなければならない存在、周囲の人に影響を与え、彼らの心の一部を形成してしまうはずの主体が、突然消失してしまう空虚感が横溢するからである。もうその人からは“情報”はもらえない。だからこそ、生きている間に“ちゃんと伝える”ことが必要なのだ。

 逆に言うと“ちゃんと伝える”ことを怠れば、残るのは後悔の念だけだ。主人公は高校生の頃は父親の教え子であり、サッカー部では選手とコーチの関係だった。通常の親子関係より濃密なものがあったはずなのに、やっぱり“伝える”あるいは“伝えられる”ことに関しては不十分ではなかったのかと思い悩む。ラストでの、今度は自分が“伝える”立場としての覚悟を持つ主人公の姿が感動的なのも、作者のスタンスが強固である故だろう。

 主演のAKIRAは「山形スクリーム」に続いての登板だが、演技が板に付いてきた感じだ。奥田瑛二と高橋惠子の両親も味わい深い存在感を発揮している。そして最も印象的なのはヒロイン役の伊藤歩だ。考えてみれば園子温監督は女の子を可愛く撮ることが得意だったが(笑)、それを勘案してもここでの彼女は素晴らしい。凛とした清潔感が画面を引き締める。若い割にキャリアは長い彼女だが、これは代表作の一つになるであろう。
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「TATTOO<刺青>あり」

2009-09-05 06:52:45 | 映画の感想(英数)
 82年作品。昭和54年に大阪の三菱銀行支店で起こった猟銃強盗・人質事件の犯人のプロフィールを下敷きにした作品で、メガホンを取ったのは当時ピンク映画の巨匠と言われた高橋伴明。これが一般映画でのデビューとなり、作品自体もキネマ旬報誌のベストテンに入る等、評論家筋から高い評価を受けている。

 主人公の竹田明夫は四国の田舎町に生まれ育ち、15歳のときに遊ぶ金ほしさに強盗殺人事件を起こし、少年院で数年過ごした。20歳に大阪に出てきて場末の飲み屋のバーテンダーとして働き始めるが、しがない毎日を送る甲斐性しかないくせに、30歳になるまでにドデカイことをやったろうと勝手に思い込んでいた。ところが同棲していたホステスをヤクザに寝取られたのが、彼がすでに31歳のとき、鬱屈した思いを爆発させて凶行に走る・・・・という筋書きだ。

 本作は肝心の強盗に入った銀行での狼藉ぶりを映してはいない。ライフルを片手に銀行に押し入る場面で片付けている。大事なのは、事件そのものではなくて犯人像だと言いたいらしい。ところが映画は明夫の内面にほとんど入っていかない。チンピラのような所業を見せるかと思えば、母親には優しく接する。敵役であるはずのヤクザにはまったく頭が上がらない。要するに軽くて気の小さい男なのだ。

 しかし、彼がどうして最後に大それた事をやったのか、その背景がまったく見えてこない。少しは悩んだりとか心の中の葛藤があったとか、そういうのが存在したはずだが、映画では描かれない。かといって対象を完全に突き放して即物的な効果を狙っているのかというと、それも違う。登場人物たちの日常は丁寧に描かれる。ところがそれが物語の求心力とほとんど絡んでこない。これは作者のストーリー作りの設定が上手くいっていないことを意味している。

 明夫を演じる宇崎竜童は実によく頑張っていて、彼の持つ可笑し味のあるキャラクターもよく出ている(ただし、役柄とあまりリンクしていないのが辛いところだが ^^;)。相手役の関根恵子も何を考えているのか分からない女を上手く演じていた。堂々たる脱ぎっぷりも見どころの一つだ。

 なお、この作品がきっかけになり、関根と高橋監督は結婚。彼女は撮影中に本当に宇崎に気のあるところを出していたらしく、その“結末”としては実に面白い幕切れであったとは思うのだが・・・・(^^;)。
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「南極料理人」

2009-09-04 06:39:13 | 映画の感想(な行)

 どんなにハードな環境にあっても、食事の時には笑顔になる。たとえそうならなくても、ホッとしたり思考パターンを落ち着かせてくれることが出来る。しかもそれが美味しかったりすると、まさに至福のひとときだ。この映画は食事の有り様を通して人間性をポジティヴにうたいあげた快作である。

 海上保安庁の調理担当・西村は、南極越冬隊のコックとして意に添わない人事を押し付けられる。しかも勤務地は昭和基地のようなメジャーな(?)事業所ではなく、内陸部の奥深くに設置されたサテライト基地で、メンバーもわずか8人という小さな所帯。非日常的な密閉空間に1年以上も同じ顔ぶれで寝起きすれば、積もるストレスはかなりのものだ。事実、本作でもノイローゼ気味になって奇行に走ったり、引きこもりに陥ってしまう隊員も出てくる。だが、ここには彼らを“日常”に引き戻す“食事”という大きな媒体が存在したのだ。

 単調な隊員生活が行き詰まらないように、当局側はこの辺境の地に山のような食材を配給した。西村は状況に応じたメニューを展開し、隊員達の結束を図ってゆく。当然、それらは素晴らしく美味しそうに撮られている。ハッキリ言って、近年日本映画においてこれほど料理の持つ映像喚起力を発揮させた作品は他に見当たらない。食欲こそが人間の原初的な欲求であり、なおかつ知性や理性の源泉であって、最終到達点の手助けになるという主題を観る者に納得させるだけの表現力を備えていると言って良かろう。

 沖田修一の演出は派手さはないが、各キャラクターの配置やエピソードの並べ方に非凡なものを見せる。特に隊員達と留守を預かるその家族との微妙な距離感の見せ方は、これ見よがしなハプニングを織り込まないだけに説得力を持つ。任務を終えて“日常”に復帰する彼らの心情を、さり気ないカットの連続で分かりやすく見せきる手腕はさすがだ。

 キャスト面では何と言っても西村役の堺雅人だろう。仕事は実直だが、家に帰ると“粗大ゴミ一歩手前”の扱い方をされる小市民マイホームパパの有り様が可笑しい。特に自分は台所に立たずに、妻(西田尚美)の料理に難癖ばかり付けるイヤミったらしさは最高だ。ただ、それでも家族に頼りにされている様子を違和感なく醸し出しているのは、堺の飄々とした持ち味に尽きる。生瀬勝久、きたろう、高良健吾、豊原功補といった脇の面々の扱いも申し分ない。

 ロケ地は南極ではなく北海道だが、マイナス50度を下回る空気感はよく出ていたと思うし、雪原にポツンと置かれたシビアな状況も十分伝わってくる。観て損はない佳篇である。
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