元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「嗚呼 満蒙開拓団」

2009-08-31 06:32:23 | 映画の感想(あ行)

 羽田澄子監督のドキュメンタリー作品にしては、かなり直截的なタッチで驚かされる。またフィルム撮りではなくデジカムを使用しているあたり、素材をじっくり練り上げるというより対象そのものが持つインパクトを前面に出すため、機動力を活かした映画作りだと言える。それだけ本作のテーマは重くてハードだ。

 戦前から戦時中を通じて満州内陸部に開拓団として送り込まれた農民たち。ハルピンからさらにソ連国境に近い地域に入植した彼らは、戦争が終わっても内地へ帰る手だてを持たなかった。やっとのことで方正(ほうまさ)と呼ばれる地区に難民キャンプを作ったのだが、寒さと疫病で数千人が犠牲になった。小さい子供は置いて行くしかなく、それが後に中国残留孤児の問題へと繋がってゆく。

 映画は命からがら帰国してきた人々のインタビューを中心に進行するが、その内容は苛酷を極め、聞く側は絶句するしかない。一見、現役を引退して悠々自適の生活を送っているような彼らの口から、凄まじい悲劇の実態が語られるシーンはショッキングと言うしかない。日常の裏に潜む大きな歴史の真実、その落差に慄然とする思いである。

 最も驚いたのは、開拓団の入植が戦争が終わる年までも延々と行われてきたことだ。敗戦が色濃い状態で、最前線に近い地域へ実情を何も知らせず、平気で開拓団を送り込む当時の政府・軍当局の厚顔無恥な有様には、観ているこちらもはらわたが煮えくりかえる思いがする。そんなくだらない“国策”とやらで、多くの人命が失われたのだ。

 しかも、元開拓団のメンバーが“今の薬害事件や沖縄の問題なんかと同じです”と語るように、この構図は現在も変わってはいないのだ。政治家や官僚がきれい事ばかり並べ立て、あたかも“これさえ達成すれば、何もかも良くなる”といった甘言を弄し、その実国民を踏みにじってゆくケースがここ10年間でもどれだけ発生したことか。

 左巻きの連中は“日本人は、先の戦争の加害者意識を反省していない”と言うが、真に反省すべきは国家が国民を蔑ろにしてきたことだ。そのへんを曖昧にしたまま、自らの手であの戦争の“総括”もせず、漫然と国家と国民との“唾棄すべき主従関係”を温存している状況に、この映画は激烈な抗議を敢行しているようだ。

 難があるとすれば、あまりにも中国側の“善意”をクローズアップしており、作者の左傾リベラルな姿勢が過度に出ていることだ。残留孤児を引き受けた彼らにも切迫した事情があったはずだが、そのへんを深く突っ込んでくれなかったのはかなり不満。とはいえ、明確な問題意識に裏打ちされたドキュメンタリー映画の秀作という評価は揺るぎないものだ。一人でも多く本作に接して欲しいと、切に思う。
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「フランケンシュタイン」

2009-08-30 06:52:45 | 映画の感想(は行)
 (原題:Mary Shelley's Frankenstein )94年作品。フランケンシュタインの怪物は狼男やヴァンパイアの同類としてB級ホラー映画に数多く登場しているが、唯一メアリー・シェリーの原作に忠実に描いたのは70年代中盤に作られた「真説フランケンシュタイン」(主演マイケル・サラザン、日本ではTV放映のみ)だった。単純なモンスター映画と一線を画す正攻法の演出が興味深く、特にラストの追いつめられた科学者と怪物が北極の雪原に消えていくシーンでは、原作の持つ深みを垣間見ることができた。

 さて、本作は「ドラキュラ」に続くフランシス・コッポラの“正調モンスター映画シリーズ”(?)の第二弾としての登場。コッポラは製作に専念し、監督および主演は「ヘンリー五世」などのイギリスのケネス・ブラナーである。

 冒頭、北極海で難破する帆船の描写からフランケンシュタイン博士(ブラナー)と怪物の登場、博士の回想シーンと続く10分あまりはハリウッド製スペクタクル映画のケレンとハッタリが鼻につき“こりゃダメかな”と思ったが、19世紀初頭のスイスの落ち着いた雰囲気をカメラが捉え始めると、いつの間にか画面に没入してしまった。

 主人公ヴィクター・フランケンシュタインは幼なじみのエリザベス(ヘレナ・ボナム・カーター)との結婚も決まり、安心して大学の医学部での研究に没頭する毎日であった。しかし、野心的な教授(ジョン・クリース)の影響を受け、“死者を蘇生させる”という実験にかかわるようになっていく。そうして生まれたのが例の怪物(ロバート・デ・ニーロ)であった。醜く誰からも愛されない彼は、創造主であるヴィクターに復讐を誓う。

 原作では母親の理不尽な死が主人公が危険な実験に没入する原因となるのだが、残念ながらその理由付けが映画では弱い。しかし、ヴィクターが教授の悲惨な最期を見て狂ったように蘇生実験に突っ走るシーンは劇中の見せ場の一つ。ブラナーの演出力は凡百の監督を寄せ付けず、まさに鬼気迫るジェットコースター的疾走で観客を圧倒させる。

 ヴィクターの愛する家族・友人を次々と奪っていく怪物だが、恐ろしさより悲しみの方が強く印象づけられる。創造主としてのヴィクターが“神”ならば、意志を持つ怪物は“人間”としての比喩を持つ、という解釈も成り立つが、その前に魂を持たずに生まれた怪物の心の空洞を思って慄然となってしまう。愛のない心は感情をコントロールすることができず、救いを求めるようにヴィクターに自分の“伴侶”を作るよう強要する怪物。それがまた新たな惨劇を生むのだが、まるで蟻地獄に落ちていくような運命の残酷さに、人間が持っているどうしようもない性を目の当たりにするようで、しかし映画はそれをたぐいまれな描写力で納得させていく。

 デ・ニーロ扮する怪物は巧妙なメイクで、しかも本人の“面影”を見事に残し感情表現も絶妙。ボナム・カーターの大熱演、友人ヘンリーを演ずるトム・ハルスの飄々とした味もいい。SFX、衣装、音楽(byパトリック・ドイル)も言うことなし。ハデなスペクタクルに振りすぎたきらいもあるが、まずは観る価値十分の力作だ。それにしてもこの頃のブラナーは才気が残っていた。今では見る影もないのが残念である。
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「サマーウォーズ」

2009-08-22 06:37:47 | 映画の感想(さ行)
 脚本の素晴らしさに圧倒される。古き良き日本の家庭の血脈と、ネットワーク上で発生した世界を破滅させるほどのクライシスとが全く違和感なく同居している不思議。さらにはこれはホームドラマやSFものであるばかりではなく、青春映画であり、アドベンチャーであり、スポ根ドラマでさえある。それらの要素が絡み合い、大いなるクライマックスに向けてヴォルテージを幾何級数的に上昇させ、爆走してゆくさまは、まさに壮観と言うしかない。

 数学が得意という以外は何ら取り柄のない高校生が、一級上の美人の先輩に無理矢理に連れ出された先は、長野県上田市にある彼女の実家だ。一家の女当主の90歳の誕生日を祝うために集まった一族郎党は約30人。共働きの両親とは疎遠になりがちな主人公にとって、多数の人員による濃密な人間関係の中に放り込まれるということ自体が“未知との遭遇”なのだが、本作のエラいところはこれを単純な“都会と田舎との対立構図”に振っていない点だ。



 ただ“ディープな人々に出会って、こういうのも良いなあと思いました”という底の浅い“感想”の表明には終わっていない。深いところからドラマを立ち上げるため、作者はあらゆる手を打ってくる。同時進行で描かれる、社会システムともコミットする巨大ネットワークの危機が、この一家の放蕩息子の仕事ぶりに端を発していることで、田舎の旧家の人間模様と密接にリンクしてくること自体は良いアイデアだが、それだけではまだ不足だ。

 そこで本作では、ネットワークの動作レベルの上に人間関係の有り様が存在しているという、考えてみれば当たり前だが昨今は失念している者が多い重大なテーマを据えている。しかもそれは安易な“ネット軽視”には陥っていない。ネットを動かしているのは人間であり、逆にネットによって使い手の新たなリレーションシップが発展するという、一種の理想像を何の衒いもなく提示している点が感動的だ。



 前作「時をかける少女」でもその有能さを発揮した細田守の演出はテンポが良く、一点の緩みもなくドラマを加速させる。地表に落下しそうになる人工衛星とか、折しも開催されている高校野球の県大会にヒロインの従兄弟が参加しているとかいったサブ・プロットも実に有機的に機能する。ノスタルジックな田舎の風情と、シャープな電脳世界との対比も目を見張るようだ。

 そしてキャラクター設定は見事で、無駄な登場人物がまったくいない。神木隆之介、桜庭ななみ、富司純子、谷村美月といった“声の出演”も申し分ない。欠点が見当たらない特上の娯楽作品であり、ラストに流れる山下達郎のナンバーが爽やかに響く。この夏随一の目玉商品だ。
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「美味しんぼ」

2009-08-21 06:22:03 | 映画の感想(あ行)
 96年作品。失敗作と言うしかない出来だ。根本の部分から何か勘違いをしている。雁屋哲と花咲アキラによる、あまりにも有名なこの原作漫画を映画化する意味は何か。最も映画として描かねばならないのは何か。作者は少しも分かっちゃいない。

 “食”という人間最大の欲望、“料理”という究極の芸術がテーマになっている素材だから、まず映像化するべきものはエロティックなほどの美しい料理と名人芸とも言える調理法に決まっている。観ているだけでヨダレが出るような、空腹時には正視できないような、美味しそうな画面とそれを作るノウハウ。どうして美味しいのか、普通の調理法とどう違うのかという、理にかなったウンチク。「恋人たちの食卓」や「バベットの晩餐会」「金玉満堂/決戦! 炎の料理人」といった作品群に劣らないほどの壮麗な映像で観客を圧倒させることが第一。極端な話、ドラマはそのあと考えればいいのだ。

 ところが実際この映画の映像は実に貧弱である。“究極”VS“至高”の対決は劇中3回ほどあるが、“魚対決”“中華対決”という極めて曖昧なテーマしか用意されていない。TV「料理の鉄人」でも素材を絞って腕を競っていたのに、これでは対決にもならない。そして出てくる料理がちっとも美味しそうではない。だいたい料理にカメラが寄らず、ヘンに引いたロングショットが多いのだから呆れてしまう。あるのは白々しい講釈だけ。

 代わりにこの映画は何を描くかというと、原作には出てこない山岡の妹分(遠山景織子)をめぐる煮豆がどうのこうのというエピソード。樹木希林扮する山岡(佐藤浩市)の遠い親戚のオバサンが出てくるあたりで完全に映画が終わってしまった。これでは昔の大船松竹時代のお涙頂戴路線ではないか。山岡が出来た煮豆を売り歩き、それを物陰から雄山(三國連太郎)がのぞいているという展開もまったく意味不明。そして二人が“和解”したような結末をつけるなんて言語道断。

 栗田ゆう子に扮する羽田美智子が可愛かったのが唯一の救いだが、ベテランの職人監督である森崎東の作品としても最低の出来だろう。そしてBEAT BOYSとかいうグループによるエンディングに流れる軽薄な主題歌、唖然となるほどヒドい(-_-;)。
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「縞模様のパジャマの少年」

2009-08-20 06:32:11 | 映画の感想(さ行)

 (原題:THE BOY IN THE STRIPED PYJAMAS)あざとい作りの映画だと思う。第二次大戦時においてナチスドイツがユダヤ人に対して行ったことは断じて許されるものではないが、それを映画として描く場合には何らかの“面白さ”を挿入することが不可欠だ。これは不謹慎な意味で言っているのではない。映画は作り手のメッセージの媒体である前に、娯楽なのである。

 どんなに重い主題をシリアスなアプローチで扱おうとも、そこに映画的高揚や興趣が見当たらないような作品は失格だ。しかし、いくら観る者に興味を持たせようと思っても、本作のようなネタ振りは“反則”であろう。悲劇のための悲劇といったような“ためにする”話では、鼻白むばかりだ。

 大戦下のドイツ、8歳の少年ブルーノ(エイサ・バターフィールド)の父親はナチス将校。ベルリンからの転属先は、片田舎の森の中だった。そこでブルーノは縞模様のパジャマを着た多くの人々が働いている“農場”を見つける。もちろんそれは収容所なのだが、彼にはそのへんの事情が分からない。やがて同世代のシュムエルという少年と知り合い、フェンス越しに話をするようになる。そこから作者はラストの暗転に向かって周到にプロットを積み上げたつもりだろうが、どうも釈然としない。

 いくら小学生でもガリガリに痩せたシュムエルの様子や高圧電流が流れる鉄条網を目の当たりにすれば、安易に近づいてはならない場所だということが分かりそうなものだが、それを“主人公は幼いから”という一点で押し切ろうとしている。このような展開にするためには、それまでブルーノが極度に友人に恵まれないといった設定ぐらい持ってくるべきだが、引っ越す前の彼は複数の仲の良い友達と連んでいたのだから、説得力はない。どうも本作の送り手は、子供の洞察力を甘く見ているようだ。

 引っ越し先の住居がコンクリートむき出しの殺風景なもので、これを前に住んでいたベルリンの家とを対比させようという魂胆も図式的でタメ息が出てしまう。ブルーノよりも、中学生の姉をメインに描いた方が面白かったのではないか。それまで幼かった彼女は、新しい住処で家庭教師から国粋主義的な思想を吹き込まれた途端、バリバリの軍国少女に“変身”してしまう。人間の浅はかさを描出する意味で絶好のネタになったと思うのだが、作者はブルーノが主役のお涙頂戴劇にしか興味がなかったようだ。

 マーク・ハーマンの演出は可もなく不可も無し。子役陣もそれほど上等とは思えない。印象的だったのはジェームズ・ホーナーによる流麗な音楽ぐらいだ。それにしても、アメリカ映画とはいえ登場人物がすべて英語で話すのには閉口する。ドイツ側でこういう映画は出来ないものなのだろうか。
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「SWEET SIXTEEN」

2009-08-19 06:25:34 | 映画の感想(英数)

 (原題:SWEET SIXTEEN )2002年作品。ケン・ローチ監督の真価が発揮されるのは、この作品のように子供や若者を主人公にして低所得者階層の家族を描く時である。舞台は英国グラスゴー近郊にある小さな港町。家族の愛を知らずに育った15歳のリアムは学校へも行かず、仲間とつるんでのタバコの闇売買で暮らしている。彼の夢は服役中の母の釈放後に姉とその息子の4人で暮らすこと。だが新しい家を買うために危ない橋を渡り、マフィアがらみのトラブルに巻き込まれてしまう。

 主人公リアムは街のボスにも見込まれるほどのドラッグディーラーとして成り上がってゆくが、彼は野心などさらさらなく、ただ服役中している母親が出所したら一緒に暮らしたいという夢を持っているに過ぎない。アウトローな日常と少年らしい純粋な内面との落差が、主人公達を取り巻く過酷な現実を浮き彫りにする。

 ラスト近くではやっと手に入れた彼のささやかな幸福が、無慈悲に崩れ去ってゆく様子が冷徹に描かれるが、この筋書きが観ている側にとっては意外でも何でもなく、予定調和にさえ思える事自体が哀しい。冒頭の、リアムがヤクザな祖父や母の愛人に邪険にあしらわれる場面から、すでに苦い結末は約束されていたのだ。主人公が幸せになるためには、彼の姉のように実の母親を見捨てなければならないという皮肉。この運命の理不尽さには身を切られる思いである。

 リアム役のマーティン・コムストンは素人同然らしく演技が硬いが、それが逆にこの作品では効果的だ。それにしても、80年代のサッチャーによる“改革”は“英国病”の表面上の克服はもたらしたもの、この映画で描かれるような貧民層を増大させたことに今さらながら暗然とする。我が国がその二の舞になってはならない。
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「G.I.ジョー」

2009-08-18 06:31:43 | 映画の感想(英数)
 (原題:G.I.Joe: Rise of Cobra)子供っぽい映画だ。確かに、予告編でもフィーチャーされていたパリの街を舞台にしてのチェイス場面は凄い。完全武装した車で逃げる敵を、ハイパー・スーツを着て超人的身体能力を得た主人公たちが必死に追うシークエンスは、活劇のアイデアに富み、素晴らしい盛り上がりを見せる。エッフェル塔があえなく倒壊する映像にも度肝を抜かれた。しかし、本作で観る価値があるのはこの部分だけなのだ。

 まず、世界の平和を守る国籍を超越した秘密部隊というのが、非常にクサい。別に荒唐無稽でも構わないのだが、少しは背景の説明がないと地に足が付かない絵空事になってしまう。この組織はどういうバックグラウンドを持っているのか、各国の軍隊をも上回るハイテク装備はどこから調達するのか、そしてどういう活動指針で出動するのか、それらがまったく分からない。



 いかに敵がワールドワイドに暗躍する悪の結社であろうとも、それを取り締まるのが国籍無視の武装集団でなければならない道理はない。通常の軍事機関で十分なはずだ。そのあたりの事情を明示(あるいは暗示)してもらわないと、小中学生を除いた観客は納得できないだろう(笑)。

 何より萎えるのは、敵味方共に装備するメカ類と(パリ市街戦を除く)戦いの段取りがすこぶる幼稚なところだ。ほとんどテキトーに作ったようなデザインのメカが、安手のテレビゲームみたいな稚拙な動きを繰り返すのみ。展開も行き当たりばったりにガチャガチャと進むだけで、メリハリなど皆無。続編を作る気マンマンのラスト処理なんて、あまりの白々しさに溜め息が出た。



 キャラクター面でも印象に残る奴は見当たらない。アメリカ軍からこの特殊組織に移った若造二人組(チャニング・テイタム、レイチェル・ニコルズ)が一応主人公なのだが、こいつらに魅力はない。他の面子も含めて、頭はカラッポで脊髄反射だけで動き回るような軽い連中ばかり。わずかに興味を引いたのがイ・ビョンホン扮する敵方の“忍者”である。デタラメな造型ながらこの俳優の意外な身体能力を確認できる。ただし、東京を舞台にこいつの子供時代を描いたパートはハリウッド名物“えせ日本”が全開(爆)。ユーモアもないので笑いも取れず、気勢のあがらない結果に終わっている。

 監督が「ハムナプトラ/失われた砂漠の都」などのスティーヴン・ソマーズなので、観る前は“お手軽映画とはいっても、そんなにヒドくはないだろう”と予想していただけに、観賞後の脱力感は大きい。アラン・シルヴェストリによる御立派な音楽も虚しく響く。
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「ゴシカ」

2009-08-17 19:17:59 | 映画の感想(か行)
 (原題:GOTHIKA )2003年作品。身に覚えのない夫殺しの罪で逮捕された精神科医が遭遇する超常現象。夫が管理・統括している女性専用刑務所の精神病棟で働いていたヒロインは、ある夜、帰宅途中に奇妙な少女と遭遇、そのまま気を失ってしまう。意識を取り戻した彼女は、夫が惨殺された上に自分がその容疑者となり、それまで働いていた精神病棟に収容されていることを知る。担当医師に、自分の無罪を懸命に訴える彼女だったが・・・・。

 ハル・ベリーとペネロペ・クルスが共演しているので、それだけで満足してしまいそうだが(笑)、一歩引いてみると何とも気勢の上がらない怪異譚であることが分かる。そもそも科学者であるヒロインが、どのようなプロセスで超自然現象の世界を信じるようになったのかが全然描かれていない。患者の言い分をほとんど“妄想だ!”と片付けてしまう彼女である。そう簡単にオカルト方面に理解を示すわけがなかろう。

 背景となる連続少女失踪事件の全貌も大雑把で、すぐにネタが割れてしまう。設定がいい加減である反面、怪奇描写が妙に理詰めなのも興醒めだ。少なくとも“得体の知れない恐怖”を扱った和製ホラーを見慣れた側としては、ちっとも怖くない。マチュー・カソヴィッツの演出は「クリムゾン・リバー」みたいに自爆せずに脚本を淡々と追っている分、逆に意外性が無くてつまらない。大仰なだけでまったく印象に残らないジョン・オットマンの音楽も願い下げだ。

 いずれにせよ、今やこのような“合理的な結末が付くゴースト・ストーリー”はアメリカ人から見ても“古い”と思われるようで、近年「リング」や「呪怨」などの方法論を“輸入”していることを見ても、ハリウッドがホラー映画の新機軸を打ち出そうとしていることは確かのようである。ただし、それが満足出来る“成果”を上げられているのかどうかは、あまりコメントしたくない(爆)。
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「ダーティハリー4」

2009-08-16 07:12:04 | 映画の感想(た行)

 (原題:SUDDEN IMPACT )83年作品。近作「チェンジリング」や「グラン・トリノ」の居心地の悪さを感じている間にふと思い出したのが本作だ。もちろん、ワルに対しては問答無用のオトシマエを付けるサンフランシスコ市警のはみ出し刑事ダーティハリーことハリー・キャラハンの活躍を描くシリーズ第四弾である。

 この映画が本シリーズの別の作品と違うところは、主演のクリント・イーストウッド自身がメガホンを取っていることだ。そのおかげで、ドラマ構築力に難があるイーストウッドの欠点がもろに出ている失敗作になっている。この映画の主人公は何とキャラハン刑事ではなく、ソンドラ・ロック扮する謎の女である。彼女のプロフィールと事件に関わる経緯を必要以上に紹介してしまったおかげで、前半部分なんてハリーはまるで狂言回しだ。

 だが、それも最後にハリーの大活躍を見せてくれればとりあえずの満足感は得られるのだが、この映画はまるで不発である。ソンドラの役どころは、実は数年前のレイプ事件で植物人間にされた妹の仇を討つために、レイプ犯どもを片っ端から血祭りに上げてゆく殺人犯だったのだ。当然、ラストは彼女とハリーとの大々的な対決になると誰しも思うのだが、しかし何と本作のクライマックスはハリーとレイプ犯どもとの対決だったのだ(呆)。

 彼らから返り討ちになりそうになったソンドラを、そこに颯爽と現れたハリーが助けると共にチンピラ達に引導を渡す。そして連続殺人事件の犯人をチンピラどもに押しつけ、彼女に対しては笑って許してしまうのである。つまりは“正義のためには法も秩序もクソ食らえ”と言いたいのだろう。こんなことを信じて疑わない作者の脳天気ぶりには脱力するしかない。

 おそらくイーストウッドの頭の中には、かような唯我独尊的なピント外れの倫理観が漲っていると思われる。こんなのに堂々と監督をさせるとロクなことにはならないはずだが、彼の第一線の演出家としての評価は確定しているようだ。世の中、間違っていると思う。
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「ボルト」

2009-08-15 06:27:07 | 映画の感想(は行)
 (原題:Bolt)発想が秀逸だ。そして、それをただの“思い付き”には終わらせない作劇の深さがある。連続テレビドラマの“主役”である犬のボルトは飼い主の少女ペニーを悪の組織から守るため、番組の中では毎回超能力を駆使して活躍する。ところがボルト自身はそれらを“現実”として認識している。つまり彼は自分をスーパードッグだと思い込んでいるのだ。

 彼が住むのはハリウッドのスタジオの中で、子犬の時に連れて来られて以来、そこから出たことはない。ところがニューヨークでの撮影中にロケバスから出て行ったペニーを“敵に誘拐された”と思ったボルトは、彼女を救うべく初めて“外の世界”に飛び出す。当然の事ながら番組を離れてしまえばスーパードッグでも何でもないただの犬であり、悲しいほどのギャップが彼を苛むのである。



 面白いのは、出演しているテレビ番組を現実のものだと信じているのはボルトだけで、他の動物たちは自らを“役者”であると認識していることだ。彼らは虚構と現実世界との見分けが付かないボルトを笑いものにするのだが、普通のペットとしての待遇さえ与えられずひたすら“仕事”に駆り出される自分たちの境遇に考えが及ばない。

 他人の勘違いは嘲笑するが、テメエの立場を深く考えたことがない者達と、たとえ見当外れではあっても義理と人情のために全力を尽くすこと、そのどちらに価値があるのかということだ。他者への冷笑は付和雷同しかできない烏合の衆にしか結びつかない。対してボルトの真摯な心は、すさんだ生活を送る野良猫のミトンズの心を溶かし、飼い殺しにされていたハムスターのライノの“心の目”を開かせる。そして終盤には番組での彼を超える“活躍”を現実世界で成し遂げてしまうのだ。

 三匹がニューヨークからハリウッドまでの道中、反目と和解を繰り返し、やがて強い絆で結ばれる過程は良質のロードムービーの体裁を保つ。途中で出くわすエピソードもドラマティックなものばかりで、それらをテンポ良く配置するバイロン・ハワードとクリス・ウィリアムズの演出は快調と言うしかない。



 バックの音楽はジョン・パウエルが担当しているが、それよりボルトの声を吹き替えるジョン・トラヴォルタとペニー役の若手シンガーのマイリー・サイラスの歌声が印象的。このあたりは日本語吹き替え版では味わえない興趣だ。今年の夏休み映画の中では観賞後の満足度は高い良作であり、冒頭の活劇シーンだけでも入場料のモトは取れる。

 なお、同時上映は「カーズ」の番外編である「メーターの東京レース」。短編ながらスピード感あふれる快作で、デタラメかつ愛嬌たっぷりな東京の描写も楽しい一品。本編も合わせて、お徳用感が実に大きい番組である。
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