元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

井上靖「風林火山」

2007-05-14 06:44:09 | 読書感想文
 オンエア中の大河ドラマの原作だが、まず本書の出来がどうこうと言うより、テレビドラマの脚本の冗長さを改めて感じてしまう。長編小説としてはコンパクトな長さであり、これを一年通した連続ドラマに“拡大”することは並大抵のことではないのは分かる。しかし、テレビ版は回りくどい描写が多い。

 たとえば山本勘助が武田家に仕官するようになるまで、なぜにあのような分かりにくい手順を踏まないといけないのか不明だ。余計な登場人物も多すぎる。原作に出てこない勘助の兄だの想いを寄せた村娘だの、そんなのは必要ない。小説版に出てくるキャラクターをもっとテレビドラマなりに掘り下げるようなスタンスで臨むべきだった。

 対してこの原作は単純明快。物語はサクサクと進み、一見登場人物の内面は軽く端折っているようだが、よく読むと必要最小限の行数で的確に各キャラクターの本質を掴んでいることが分かる。しかも、どれも冷たく突き放すようなことをせず、ポジティヴな視点を忘れてはいない。

 そして物語の勘所、特に勘助が由布姫を失うシーンなどは文体のヴォルテージがグッと上がったと思わせるほど集中的に描かれる。さすがは井上靖、メリハリを付けた作劇には定評のあるところだ。クライマックスの川中島の決戦は少ないページ数ながらまるで情景が浮かんでくるような筆力で読者を引きずり込む。ラスト数行は感動的だ。

 もちろんこの物語が史実そのままだとはとても言えないが、勘助が生きながらえて引き続き武田家をサポートしていたならばと思わずにはいられない。たぶん甲斐周辺の有名武将の何人かが確実にアンラッキーな目に遭い(笑)、歴史はほんの少し変わるかもしれない。そういうことに思いを馳せるのも歴史小説の醍醐味だ。
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「バベル」

2007-05-13 07:33:26 | 映画の感想(は行)

 (原題:Babel )テーマの重要度とキャストの熱演で長い上映時間を何とか持たせることには成功したが、出来は悪い。

 まず、日本編は不要だ。菊地凛子がオスカー候補になったことが話題になっているが、確かに頑張ってはいるものの、役柄自体が不自然だ。あれじゃただの“露出狂のコギャル”である。ひょっとして作者は日本の女子高生はほとんど“あんな風”だと思っているのかもしれないが(苦笑)。

 役所広司の設定も随分と無理がある。いったい何の仕事をしているのか。都心の超高級マンションに住み、休暇中にはアフリカでハンティング、しかもいくら世話になったとはいえ現地ガイドに平気でライフル銃をプレゼントするという無神経さ。ラストの娘とのショットも妙ちきりんでマトモに見ていられない。これはハリウッドでおなじみの“えせ日本”の一種ではないかと思えてくる。

 そしてメキシコ編もおかしい。知恵の回らないメイドが勝手に雇い主の子供達を故郷の村に引っ張っていき、これまた考えの足りない親戚筋の若い男が余計なことをした挙げ句、重大なトラブルを招いてしまうという話。自業自得としか言えないエピソードで、何が面白いのか分からない。メキシコから米国への不法入国という時事ネタが絡んでいることは重々承知しているが、出てくる連中が愚かすぎるのでまったく感情移入できないのだ。

 モロッコ編だけは比較的マジメな仕上がりだが、いくら後進国とはいえ子供に平気で銃を向ける警官がいるとは思えない。はっきり言って、総花的に(御丁寧に時制までも前後させて)多数のエピソードをバラマキ式に並べるよりは、モロッコ編だけを充実させて一本を撮りあげた方が数段マシだったろう。

 たとえば、バス銃撃事件の元になったライフルは過激派あたりから流れてきた物資ということにして、あとは主人公の夫婦の苦闘と、事なかれ主義に走る他の乗客達の群像劇と、国際問題に発展しそうになる事態を必死になって抑えようとする政治家たちの確執、これを三つ巴にしてテンション上げて描けばかなりタイトな作劇になったろうし、コミュニケーションの不全という作品のテーマも無理なく浮かび上がったはずだ。

 アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の前作「21g」を観たときも思ったのだが、この演出家はミクロ的には集中度は高いが全体的な作劇のまとめ上げ方には難がある。主演者ではブラッド・ピットとケイト・ブランシェットがさすがの好演を見せるが、他のキャストは肩に力が入りすぎて感心しない。グスターボ・サンタオラヤの音楽は「ブロークバック・マウンテン」に続いて流麗な仕上がりだ。
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ヘッドフォン購入とケーブル付け替え。

2007-05-12 07:59:50 | プア・オーディオへの招待
 実家のシステム用にヘッドフォンを購入した。元より私はヘッドフォンをあまり使わない。あの圧迫感がイヤなのだ。とはいっても夜間どうしても聴きたい時があるので、なければそれも困る。今回は以前使っていたSONY製のものがついに“寿命”が来てしまい、やむなく更改した次第だ。



 ヘッドフォンを選ぶ際に最も重要な点は、密閉型だのオープン・エア型だのといった構造ではない。極論すれば、私の場合は音質だってイヤな音が出なければどうでもいい(笑)。一番チェックしなければならないのは“掛け心地”である。どんなに音が良かろうと、頭にフィットしなければ長時間聴いていられない。で、典型的日本人体型のデカ頭である私には海外製品はまったく合わないのである(爆笑)。ゼンハイザーもAKGといった欧州製も、確かに音は良い。でも私にとってはキツすぎてダメだ。もちろん、昨今の若者をターゲットにしたであろうスタイリッシュなデザインのものも全く受け付けない。スマンなぁ~、私は“小顔”じゃなくって(W)。

 さんざん探し回った結果、選んだのはAUDIO-TECHNICAATH-AD700という機種。同社のヘッドフォンは学生の頃に使ったことがあり、それ以来だ。音はややハイ上がりで薄味、物足りないサウンドなのだが、歪みっぽさや極端な強調感がないのが良い。そして何より頭にピタッと収まる。・・・・というか、フィットするのがこれしかなかったから仕方がない(自爆)。

 それにしても、ヘッドフォン売り場の機種の豊富さには驚いた。最近のデジタルオーディオプレーヤーの普及によるところが大きいのだろう。プレーヤーに付属しているイヤホンは“オマケ”でしかないから、まともな音で楽しみたかったら別途調達するしかない。それに、DJ用の製品も目に付く。また、スピーカーでは海外製品に押されっぱなしの国産機が、ヘッドフォンの分野では頑張っているのも印象的だ。

 さて、以前RCAケーブルをメイン・システム用に何本か買ったことを述べたが、実装した際のことを書いていなかったので、遅ればせながらインプレをアップしようかと思う。繋げてみたのは米国Belden社の88760という線材を使った赤いケーブルと、MOGAMI(モガミ)のNEGLEX2534。そしてサブ・システム用に使っているLSSC(「吉田苑」製)も持参した。



 結果、驚いたことに3本の中では一番安価であるMOGAMIの圧勝だった。そして意外にも一番良いと予想していたLSSCがまるでダメだった。言い忘れたが、メイン・システムはスピーカーがダイヤトーンの最後期の4桁シリーズ、アンプがアキュフェーズ、CDプレーヤーはTEAC製である。美音調のKEFのスピーカーを使用したサブ・システムとは違い、ストレートでアキュレートな傾向にまとめている。やはりこういう音調のシステムだと、ケーブルに少しでもクセのあるものを持ってくると音が濁るのであろう。解像度・情報量重視かつフラット指向で詰める必要があり、美音系のLSSCは完全にアンマッチで、中低域がボケボケになってしまった。

 それにしても、MOGAMIはサブ・システムでの実装結果も悪くなかったし、この汎用性は素晴らしいものがある。業務用だから・・・・ということでもないのだろうが(同じ業務用でもBeldenはクセがある)、徹底したナチュラル傾向で、真の意味でのリファレンスと言えるだろう。特に聴感上のS/N比(ノイズ低減度)の良さは印象的。つくづくオーディオアクセサリーの性能は価格とはあまり関係がないことを実感した。
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「クィーン」

2007-05-11 06:41:30 | 映画の感想(か行)

 (原題:The Queen )97年8月のダイアナ元皇太子妃のパリでの交通事故死をめぐる英国王室内の“実録風ドラマ”だが、これを観てまさか“ここまで描かせる英国王室は実にオープンで素晴らしい(それに比べて我が国は・・・・)”なんて脳天気な感想を持つ者はいないだろうな。

 何の思慮思惑もなく、こんな暴露物みたいなシャシンの製作・公開を王室が黙って見ているはずがない。これはあの事件を女王とブレア首相の側からの都合の良い解釈でとらえたフィクションに過ぎないのだ。ならばそう割り切って楽しめば良い・・・・とも言えないのだから厄介である。

 実在していて現役バリバリの登場人物たちを描くのなら、そんなに思い切った展開に出来ないのは当然。つまりは映画としては微温的に立ち回ることしか出来ず、最初から“そこそこの出来”になることを運命付けられた作品なのだ。これをどう面白く見ろというのか。

 それでも、エリザベス女王を演じてオスカーを受賞したヘレン・ミレンは敢闘しており、実際に女王は少しはこのようなリアクションをしたこともあったのだろうと思わせる存在感。ブレア首相役のマイケル・シーンも本人に似せる役作りに成功。フィリップ殿下に扮するジェイムズ・クロムウェルに至っては、アメリカ人なのに英国ロイヤル・ファミリーの一員として違和感のない佇まいで感心した。ただし、それは単に“良くできた物真似”でしかない。女王の普通のオバサンとしての行動や生活様式も、親しみやすいというより、ワザとらしい。

 本当の舞台裏はこんなもんではないだろう。離婚したとはいえ、世界的な人気者だったダイアナ元皇太子妃の突然死に直面して、王室や政府がいかに動揺したのか想像に難くない。ドロドロとした駆け引きもあっただろうし、陰謀説も跳梁跋扈したことだろうし、ダイアナの恋人ドディ・アルファイドに関する噂も無視できない。

 ただし、それらはここでは描かれない・・・・というか、描けないのだ。おおっぴらに真相に迫れるのは、関係者がほとんどいなくなる将来においてである。今は、本作のような“実録らしき再現ドラマ”でお茶を濁すしかないのだ。

 監督はスティーヴン・フリアーズだが、いつものような切れ味が感じられず、これも不満である。
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「過去のない男」

2007-05-10 06:52:38 | 映画の感想(か行)
 (原題:Mies Vailla Menneisyytta)2002年フィンランド作品。同年のカンヌ映画祭で審査員特別賞と主演女優賞を獲得した話題作だが、私はちょっと不満だ。第一、アキ・カウリスマキ監督作品にしては上映時間が長すぎる。1時間40分は昨今の劇映画としては短い方だが、ことカウリスマキの演出方法においては納得できないのだ。

 説明的な描写を限りなく削ぎ落として即物的な場面のみを並べ、それらの間の展開を観客の想像力に委ねるといった、ある意味ハードボイルドな作風が信条のカウリスマキにとって今回の映画は饒舌に過ぎる。たとえば序盤の、主人公(マルック・ペルトラ)が記憶を失ってヘルシンキのドヤ街に行き着くまでの顛末は、病院に担ぎ込まれてそこから抜け出すまでの描写がまったく無駄だ。中盤での救世軍のバンド演奏を延々と流すシーンも無駄。元の女房に会いに行って帰る際の途中の場面も無駄。何より主人公とヒロインの逢い引き(?)のシークエンスは半分近くが無駄だと思われる。

 それらをカットすれば30分以上は短くなるはずで、カウリスマキの面目躍如と相成ったことであろう。しかし“(この監督の作品は)こうあって欲しい”という映画ファンの要望も身勝手なものであることも確かなのだ。

 作者の心境の変化により作風が変わるのは当然。特に今回はこの監督に長く関わり合ったヒロイン役のカティ・オウティネンを“功労賞”の意味で魅力的に捉えようとしたあまり、ドラマ運びをあえて平易にしたフシがある(反面それで幅広い観客層に“ハートウォーミングな話”としてアピールできたのも事実だ)。

 個人的には「真夜中の虹」や「愛しのタチアナ」といった過去の作品の方が好きだが、これはこれで十分存在価値のある映画だろう。主演二人の演技は素晴らしく、こってりとした画面の色づかいも楽しい。
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「神童」

2007-05-09 06:50:03 | 映画の感想(さ行)

 前半が良くて後半がダメな映画である。さそうあきらによる同名漫画の映画化で、二ノ宮知子原作による「のだめカンタービレ」のテレビドラマ化と同じく、クラシック音楽をネタにした面白おかしな若者群像が描かれる。

 実家の八百屋の二階で下手なピアノを練習して、近隣の顰蹙を買っている音大を目指す浪人生が、突然天才的なピアノの才能を持つ女子中学生に押しかけられ、受験の“特訓”を受けることになる。

 下町の濃密な人間関係の中で育った彼と、その才能により周囲から腫れ物を触るように扱われてきた少女との互いの境遇のギャップ、だからこそ当人にないものを求めるように二人が打ち解けてゆく過程は納得できる。その関係が徹底してプラトニックだというのも微笑ましいし(まあ、手を出したら捕まってしまうのだが ^^;)、何より年下の可愛い子にお尻を引っぱたかれながら叱咤激励されるという嬉し恥ずかしいシチュエーションは、男として面映ゆい共感を抱いてしまう(激爆)。

 すったもんだの末に彼が音大に合格するまでが前半の展開で、テンポの良い演出でイッキに見せる。序盤にあれだけピアノがヘタだった彼がそう簡単に上達するとは思えないが、まあそこは“愛嬌”ってもんだ(笑)。しかし、後半になると彼女の父親の話とか彼のガールフレンドを巡る顛末とか、さらには彼女自身が抱える“問題”とか、複数のまだるっこしいネタが頻出してきて映画のリズムが完全に鈍化。萩生田宏治の演出も息切れ気味。

 海外の有名ピアニストが出てくるパートなんて、完全に御都合主義。クライマックスの演奏シーンも勿体ぶった割にはあまり盛り上がらない。ラスト近くなんて完全に失速。もうちょっと気の利いた結末を考えるべきだった。

 原作の構成がどうなのか知らないが、前半だけを膨らませて一編にした方が良かったのではないか。それならば長すぎの上映時間(2時間)も20分以上は削れると思う。

 主人公に扮する松山ケンイチはナイーヴさを前面に出した好演で、今回も懐の深さを見せつける。ヒロイン役の成海璃子は評判通りの逸材で、年齢に似合わない大人びた存在感は将来性を感じる。最近の邦画界は少女俳優に多くの才能が揃い、嬉しい限りだ。

 コンサートの場面を除いた音楽の扱い方は万全で、出演者達の演奏シーンもサマになっている(貫地谷しほりの口パクはまあ、アレだったけど ^^;)。ただし、ハトリ・ミホによるオリジナル楽曲はつまらない。クラシックの既成曲に完全に負けている。全編クラシックで攻めた方がよっぽど良かった。
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「東京原発」

2007-05-08 06:50:36 | 映画の感想(た行)
 2004年作品。突如「東京都心に原発を誘致しよう!」とブチあげたワンマン都知事をめぐってのドタバタを描く山川元監督作品。

 映画の大半が都庁の会議室でおこなわれる登場人物たちのやり取りに費やされていながら、舞台劇をそのまま映画にしたような閉鎖的な息苦しさを感じさせないのは、核ジャックという別プロットを同時進行させて適度にインターバルを置いているためで、このあたりの作劇は納得できる。

 ただし、知事役の役所広司をはじめ段田安則、田山涼成、岸部一徳といった海千山千のキャストが楽しそうに演技合戦を繰り広げるメイン・プロットと比べて、プルトニウム強奪のパートは“本筋のオマケ”でしかないのが辛い。あまり時間を割けないのなら、ネタ自体にもっと大風呂敷を広げても良かった。

 だが、この映画のテーマ自体の重大さはそんなことを忘れさせてくれるのも確かだ。終盤に知事の“真の意図”が明かされるものの、東京に原発を置くという方策はエネルギー問題を考える上で絶好の題材になる。特に知事の“都民は電力を消費するばかりで、発電所を自分たちの目の見えない場所(地方)に追いやり、勝手な机上論に終始している”という意味のセリフは痛烈だ。

 あまり映画を“テーマそのもの”で評価はしたくないが、この作品に限っては例外としたい。完成してから2年も公開のメドが付かなかったのも実に意味深いと思う。
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「ブラックブック」

2007-05-07 07:47:37 | 映画の感想(は行)

 (原題:Zwartboek )オランダに“凱旋”したポール・ヴァーホーヴェン監督が本領を発揮した快作。

 第二次大戦下のオランダを舞台に、何者かの裏切りによって家族をドイツ兵に殺されてしまったユダヤ女の復讐を描くサスペンス編だが、この時代を題材にする映画の多くが(程度の差はあれ)ナチスの非人道的な部分を強調し差別だの何だのを糾弾するという“ヒューマニズム路線”をポーズとして取っているのに対し、本作は見事なほどそれがない。あるのは、一人の女が遭遇する“地獄めぐり”みたいな露悪趣味満載で波瀾万丈の冒険談である。この割り切りが実にヴァーホーヴェンらしくて潔い。

 しかも、この“ヴァーホーヴェン節”が戦争の悲惨さとそれに直面した人間の弱さとをスクリーン上に鮮烈に逆照射している点が痛快だ。映画はメッセージを伝えるメディアである以前に“娯楽”である・・・・という原則を再認識できる。

 ナチスの連中は全員が徹頭徹尾“悪”ではなく、もちろんレジスタンス側が常時“善”であるはずもなく、無辜の市民がナイーヴな戦争の犠牲者であったなんてトンでもない。すべては欲得ずくと、ほんの少しの“感情的思い込み”により勝手に動くシロモノに過ぎず、ヒロインはそれら魑魅魍魎の中を喘ぎながら進むしかない。そして彼女にしたところで、独善にとらわれている小市民でしかないってことは、ラストで大きく強調される。

 上映時間は長めだが、一時とも息をつける箇所はないほど、演出のテンポは超高速。しかも、プロットは強固でほとんど破綻がない。ユーモアも万全。これこそプロの仕事であろう。

 主演のカリス・ファン・ハウテンが圧巻。オランダのトップ女優という話だが、なるほど愛嬌のあるルックスに純情さとしたたかさが絶妙にブレンドされた表情は、ただ者ではないと感じる。そして文字通りの体当たりの演技・・・・これを体当たりと言わずして何を体当たりというのかというほどの熱いパフォーマンスに、観ているこちらも興奮を禁じ得ない。とにかく、今年前半を飾るヨーロッパ映画の快作だ。見逃すと損をする。
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「ドクター」

2007-05-06 10:13:02 | 映画の感想(た行)

 (原題:The Doctor)91年作品。主人公マッキーは、BGMを流しながら鼻歌まじりで難しい手術をこなしてしまう有能な外科医だ。地位も名誉もあり、暮らしは裕福だが、多忙のため近ごろ家族との対話が持てず、いつの間にか患者一人一人に対する思いやりをも忘れている。そんな彼がガンを宣告され、初めて患者の立場で自分の人生を見直すことになる。主演はウィリアム・ハート。監督は「愛は静けさの中に」(87年)に続いてハートとコンビを組む女流のランダ・ヘインズ。

 ひとことで言って、物足りない。理由は簡単、描写に力がないからだ。たとえば序盤のマッキーを取り巻く状況が的確に示されていない。主人公も周囲の人々も、通りいっぺんの描き方しかされておらず、いったい主人公の生活のどこに問題点があったのか、またそれがガンの告知という重大な事態によりどう変わっていったのか、ほとんど明確ではない。

 大病院の医師であるから、少しは仕事に対してドライになることだってあるだろうし、さばけない同僚をバカにすることだってある。だが、それがガン告知に際して思い悩むような事だろうか。死ぬほど後悔するような事であろうか。別にどうでもいいことなのではないだろうか。もしそれが主人公にとって重大なことだとしたら、映画はその理由を観客に納得させなければならない。

 たとえば、マッキーは本来はナイーヴで心の優しい性格だったのが、激務で周囲に対する思いやりを忘れがちになったことを強調して、ガン告知後の心境の変化を浮き立たせる、という形にすべきである(その際は、描写がワザとらしくならないように配慮するのはもちろんのことだ)。ところがこの主人公はガン告知前もそれなりに幸福な人生だったし、告知されてからも別に変わるわけでもない。脳腫瘍の末期患者である女性(エリザベス・パーキンス)との出会いもとって付けたようで感心しないし、ラスト近くでインターンたちに“患者の気持ちを汲み取れ”と説教するのも言い訳みたいな気がする。

 病気や事故で人生観が変わっていく、というテーマは黒澤明の「生きる」(52年)をはじめ傑作秀作がいくつかあるが、それらと比べてこの作品は弱い。切実さがない。第一、死を告知された人間の悩んだあげくの結論が、単なる“周囲への気配り”だなんて、ハードルが低すぎて無神経ではないか。とにかく、聾唖者と健常者との激しい恋を描いて観る者を圧倒した前作「愛は静けさの中に」と比較しても、描写力の低下は否めない。
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「13/ザメッティ」

2007-05-03 07:48:05 | 映画の感想(英数)

 (原題:13 Tzameti)早くもハリウッドでのリメイクが決定したらしいフランス製のサスペンス篇だが、それも頷けるほどのテンションの高い快作だ。

 貧しい若い男がひょんなことから参加するハメになった“集団的ロシアン・ルーレット大会”。怪しげな連中が出場者に大金を賭け、メンバーは死のゲームに臨まざるを得ない。13人の参加者は6連発のリボルバー片手に円陣になり、隣の男の後頭部に銃を突きつける。この“形式”はユニークかつ面白いヴィジュアルだが、同じくロシアン・ルーレットをネタにした「ディア・ハンター」が戦争の無惨さという大きなテーマを背負っていたのに対して、本作では欲得が全てという実に殺伐としたテイストに彩られているため、即物的な残忍さがより一層引き立つ。

 誰が死んで、誰が生き残るのか。当然、ゲームを重ねるごとに参加者は減っていき、さらに回が進むと同時に込められる弾丸の数も増えていくというのだから、まさに身を切られるようなサスペンスだ。

 ゲラ・バブルアニの演出は緩急を付けた職人芸で、ロシアン・ルーレット場面以外の描写はストイックに抑制されており、登場人物の内面を丹念に綴る。それがまたロシアン・ルーレットの緊張感と見事な対比を見せ、息もつけないハイ・ヴォルテージの求心力を発揮。モノクロでシネマスコープの画面も実に効果的だ。

 監督はグルジア出身で主人公もその設定。しかも主役のギオルギ・バブルアニは監督の弟だという(監督自身も主人公の兄の役で出演)。社会の底辺を這いずり回るしかない移民の身分の彼をはじめ、これだけリスクの高いゲームに何度も参加している(!)メンバーがいるということ、つまりは命を投げ出しても一攫千金を狙わざるを得ないシビアな社会情勢がそこにある。徹底したリアリズムが話を絵空事に終わらせないのだ。

 警察の無能ぶりは気になるが、死のゲームが完結してからの終盤の展開も適切で、ラストの処理も秀逸だ。
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