元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

“九州ハイエンドオーディオフェア”に行ってきた。

2007-03-21 11:10:52 | プア・オーディオへの招待

 3月16日から18日にかけて福岡市博多区石城町にある福岡国際会議場にて開催された「九州ハイエンドオーディオフェア」に行ってきたのでリポートしたい。

 今回の目玉のひとつは、米国JBL社が記念モデルとして発売したEVEREST DD66000なるスピーカーである(写真参照)。考えられるだけの物量を投入した大型モデルで、価格も一本3百万円(したがってペアで6百万円)という破格のものだ。音も横綱級で、どんなソースも楽々鳴らす。JBLといえば“ジャズが得意”との定評があるが、このモデルはジャズはもちろんのことクラシックもイケるのには驚いた。今までJBLの製品はどんな上級モデルでも“クラシック「も」聴ける”との印象は持っても“クラシック「を」聴ける”という感想は抱かなかったが、本製品に関してはクラシック音楽を中心に聴くユーザーでも十分納得できるクォリティだ。とはいえ、とことん能動的で陰影の少ないJBLのキャラクターは聴いていて疲れるのも確か。私もトシのせいか、こういう音色は受け付けなくなっている。ましてや会場内でこれより安いプライスで独自の音楽性を獲得しているモデルをいくつか見つけており、いくら金持ちでも“骨の髄までJBLが好き!”というコアなマニア以外に受け入れられないのではないかと思った。

 その“DD66000より安いプライスで独自の音楽性を獲得しているモデル”のひとつはVIVID Audio社のK-1というスピーカーだ。VIVID Audioは何と南アフリカのメーカーで、それだけでも異色だが、製品の外見も実に奇態である。大昔のSF映画に出てきたような宇宙人みたいなデザイン。しかも前と後ろにまったく同じユニットが同じように配備されており、パッと見た目は現代美術のオブジェみたいだ(爆)。しかしサウンドは素晴らしい。無限大に広がる音場から、絶妙の大きさの音像が緩急自在に(適度な明るさを伴いながら)飛び出してくる様子は、他社とは一線を画した世界観を形成していると言って良い。

 ドイツのAVANTGARDE(アヴァンギャルド)社の新製品NANOも実に良かった。ホーン式ユニット専門である同社のラインナップにはDD66000をも上回る超ハイエンド機も存在するが、一般家庭に入れてギリギリ違和感を感じないのはこのNANOあたりだろう。104dBという高能率を活かしたハイスピードながら、おかしな強調感やケレン味は一切無し。明るく艶やかな再生音はホームユースのハイクラスのリファレンスたり得る格式を持っていると思う。

 米国ケンタッキー州にあるメーカー、THIEL(ティール)のスピーカーも初めて聴くことが出来た。新製品のCS3.7である。JBLとかBOSEとかKLIPSCHとかいった所謂“アメリカ的な一種脳天気な音”とは次元が異なり、とはいっても湿り気のある欧州製品とも違う、すっきり晴れ渡った陽性の音調に滑らかさが加わった爽快なサウンドだ。特に弦楽器の再現性は高度な分解能をしっかりクリアした上でオイシイ部分を巧みにまとめてくる印象があり、これはなかなかのスグレモノだと感じた。

 我々一般ピープルも何とか手が届きそうな価格帯のものでは、TEACが初めてESOTERICブランドで取り組んだスピーカー、MG-10が面白い。低音用コーンにマグネシウムを採用することに成功した初めての製品とかで、とにかく低音のスピード感が凄い。まさに風のようにリスニングルームを吹き抜けていく、質感の高い低域である。中高域も実に無理がないバランスで、ジャンルを問わず楽しめそうだ。

 スイスのメーカー、PIEGAの製品は昨年エントリーモデルのTS3を試聴してその音場表現に唸ったが、今回は新シリーズのTP3も展示されていた。高域ユニットにさらに上質の物を採用しており、クリアそのものの音が堪能できる。TS3の上位機種であるTS5は低域にゆとりが加わった家庭用での標準機になる得るクォリティを確立。“展示品処分”として安めのプライスタグが付いていたので、あやうく衝動買いしそうになった(爆)。

 日本のガレージメーカー、マイクロピュアPASTORAL SYMPHONY Cz302ESは、わずか口径10cmの低音部ユニットを搭載したミニサイズのスピーカーだが、これが驚くような低域再現性を見せる。ジャズのベースやバスドラの音もまったく痩せたところがない。箱全体をフルに鳴らすような上手い音造りがされているようだ。この機種やPIEGAのTS3などに接すると、低音を確保するため狭い部屋に25cmや30cmあるいはそれ以上の大口径ウーハーを備えた図体のでかい製品を無理に導入することのアホらしさを思い知る(笑)。

 ・・・・あと書いていくとキリがないのでこのへんにしておくが(^^;)、多彩な機種の、これまたヴァラエティに富んだサウンドを体感してみて改めて思ったのは“音楽の感銘度は、再生装置によるところも大きい”ということだ。

 ラジカセで聴こうがテレビで聴こうがピュア・オーディオ用システムで聴こうが、良い曲はやっぱり良い・・・・というのはまあ事実だが、貧弱な装置で聴くだけではその曲の素晴らしさを100%味わうことは出来ないと思う。また、良いステレオで鳴らせば“好きな音楽、好きな曲”も確実に増える。昨今はオーディオ不況で安価な機器のラインナップが寂しくなったが、各メーカーも頑張って欲しいと思った。
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「叫(さけび)」

2007-03-20 06:43:12 | 映画の感想(さ行)

 ラストがいかにも黒沢清監督作品らしいが、逆に言えば今回も“いつものパターン”を一歩も逸脱していないことになる。どうして“ああいう世界”にこだわるのか。何かの強迫観念だろうか。

 同監督のホラーもので唯一私が評価している「CURE/キュア」は“いつもの結末”に至る前で踏みとどまっているため、恐怖が日常レベルに拡散されヒヤリとした後味を残したものだが、本作のように話が“あっちの世界”に収斂してしまうと、観客は置いてけぼりを食わされるだけ。

 それでも中盤まではけっこう面白い。湾岸地帯で発見される若い女の死体。主人公の刑事は捜査を進めるうちに、自分自身が容疑者ではないかとの疑心暗鬼にかられる。彼は見捨てられたようなアパートで一人暮らし、時折訪ねてくる恋人との仲も淡白に過ぎる。私生活が完全に“閉じた”状態でのアイデンティティの危機という、ニューロティックな設定は興味をそそる。さらに彼の疑いを裏付けるように事件の被害者と思われる赤い服を着た女の幽霊が出てきて、これが頭の痛くなるような叫び声と共に昼夜区別無くまとわりつくのだから、悲喜劇の様相を呈してくる。

 そしていつもながらのロケハンの妙味。主人公のうらぶれた住居もさることながら、特に物語の鍵を握る湾岸に面したかつての精神病院の廃墟は、いったいどうやってこういう効果的な場所を探したのかと感嘆するしかない。

 黒沢監督とよくコンビを組む役所広司は追い込まれてゆく主人公像を手堅く演じている。恋人役の小西真奈美も儚げな雰囲気をうまく醸し出しているし、幽霊に扮する葉月里緒菜の自らの大根ぶりを逆手に取った傍若無人ぶりにはニヤリとしてしまった。

 しかし、しょせんはいつもの“黒沢ワールド”の描出に終わっているため、評価はしたくない。結局、彼の持ち味を巧みにコントロールして広範囲にアピールする作品に昇華させるようなプロデューサーが必要ということだろう。
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「快盗ブラック・タイガー」

2007-03-19 06:41:51 | 映画の感想(か行)
 1950年代のタイの農村地帯を舞台に、金持ちの娘と貧しい農民の息子で今や盗賊団の一員となった青年との悲恋を描く2001年度カンヌ映画祭出品作。

 これがデビューとなる監督のウィシット・サーサナティヤンはCMディレクター出身で、大時代なストーリーをネタに、極彩色の画面と書き割りのセット、大胆な合成など、あらゆる小手先の映像ギミックを総動員して独特のキッチュな世界を展開させている。

 しかし、困ったことに映画としてはさっぱり面白くないのだ。こういう“手法オンリー”のやり方では観客の目を引き付けられるのはせいぜい20分が限度である。この調子で2時間も続けるのは辛い。真に一本の映画として観る者に感銘を与えたいならば、テクニックに加えてストーリーラインや演出リズムといった基本的なツボをも押さえておかなければならないが、この映画にはそれが全くない。昔の大映ドラマみたいな予定調和的なクサい芝居を意図的に延々と流すだけで“ハイ、なかなか笑えるでしょう?”と言われてもそうはいかないのだ。

 加えて、軽佻浮薄なエクステリアとかけ離れたような残虐非道な描写が頻繁に挿入されるのには閉口した。マカロニ・ウエスタンのパロディのつもりだろうが、観ていてイヤな気分になるだけだ。海外マーケットを意識したいなら、新奇な手法ばかりに色目を使うのは禁物。まずは国柄に合ったアプローチから考えるべきだろう。
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「ゴーストライダー」

2007-03-18 07:26:30 | 映画の感想(か行)

 (原題:Ghost Rider )ニコラス・ケイジも随分とお手軽な映画に出たものだ。いくら原作のマーベル・コミックの大ファンだからといって、彼ぐらいのキャリアを積んでいる俳優が嬉々として出演するようなシャシンとは思えない(しかも、無理のある若作りで ^^;)。これは駆け出しの若手か、演技力はあるけど地味な中堅どころに振って良いようなネタである。とはいえ、それだけ本国では人気のあるキャラクターなのかもしれない。

 17歳のときに病気の父親を救うために悪魔メフィストに魂を売り渡した主人公が、30歳を迎えて再び現れたメフィストから魂を売った代償として魔界の反逆者を始末するように命令される・・・・という筋書き自体が何やらピンと来ない。悪魔の親玉ならば若造のハネッ返り魔族など簡単に始末出来るように思えるのだが、わざわざ主人公に頼む理由が不明。そもそも、悪魔同士の内ゲバなぞ、人間界にとっては“どうでもいい”と感じるのだが・・・・。

 昔のゴーストライダーが出てくる場面も、思わせぶりなモチーフの“契約書”とやらも、映画自体の面白さには何ら貢献せず、話を分かりにくくする素材でしかないのが辛い。要するに、脚本の練り上げなどまるでしておらず、おそらく“原作のファンなら分かるだろう”みたいなノリで作っている。

 それでもまあ、ゴーストライダーがチェーン片手に火を吹きながらバイクを乗り回すあたりはヴィジュアル的には悪くない。ビルの屋上から見得を切りながら落下するショットは結構キマっている。監督はマーク・スティーヴン・ジョンソンなる人物だが、以前に「デアデビル」「エレクトラ」(私は両方とも未見)のような、まあ似たような題材を扱っている。こういうネタが好きなのだろうが、腕としてはC級だ。

 ヒロイン役のエヴァ・メンデスは、けっこう“華”のあるラテン系美女で、今後も便利に使われていくのだろう。メフィスト役がピーター・フォンダだったのには、ちょっとビックリだが(^^;)。
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「エクステ」

2007-03-03 06:39:28 | 映画の感想(あ行)

 大杉漣の超弩級ウルトラ怪演を存分に楽しめる一編。貨物コンテナから見つかった大量の毛髪と少女の死体が発端となる怪異譚など、ここではあまり重要ではない。

 不遇の死を遂げた少女の“呪い”は、大杉扮する遺体処理係兼エクステ(付け毛。ヘアエクステンションのこと)作成者の病的な髪フェチぶりがパワーアップするきっかけに過ぎない。彼はその“呪い”に悩まされるどころか、逆に吸い取って自らの“野望”を達成するための道具にしてしまうのだから恐れ入る(爆)。髪に頬寄せスリスリする場面に始まって、毛髪でデコレーションした車を乗り回し、時にはヒッピー風のイッちゃった扮装で“♪マイへア~、マイヘア~♪”と楽しそうに歌い踊るド変態ぶりには、思わず喝采を送りたくなる。本年度の助演男優賞は早くも彼に決定ではなかろうか(笑)。

 そんな彼に付け狙われるのが栗山千明が演じる髪の綺麗な美容師見習い生なのだが、中盤過ぎまではどんよりとした大杉のパートと栗山が出ている部分とが完全に分かれているところが面白い。しかも、双方のトーンが完全に違う。冒頭タイトルなんか完全にアイドル映画のそれだし、栗山が自転車に乗りながら“アタシはスタイリストの卵で、今は美容院に勤めているのだっ!”とかいうモノローグを明るく口ずさむあたりは観ていて気恥ずかしくも微笑ましい(なぜそんな独り言を呟いているのかも、ちゃんと理由が示される ^^;)。

 そして彼女の姪が母親から虐待を受けて転がり込んでくるあたりは、それ自体でひとつのドラマとして成り立つほどヴォルテージが高い。虐待母を演じるつぐみが憎々しい好演。「長い散歩」の高岡早紀なんぞ足元にも及ばない存在感であり、虐待の理不尽さと非道ぶりを強調する。

 もちろんクライマックスは画面一杯に毛髪が入り乱れるバトルになるが、ここでも主役は大杉で(笑)、最後の最後まで楽しませてくれる。園子温監督の作品は初めて観るが、オフビートなホラーと笑いのコラボレーションは無視できない個性だと感じた。同監督の他の作品もチェックしてみたい。舞台になった静岡県の田舎町も風情があってよろしい。
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「恋愛適齢期」

2007-03-02 06:46:23 | 映画の感想(ら行)
 2003年作品。(原題:Something's Gotta Give)ダイアン・キートンの“復活”ぶりに嬉しくなってしまうラブコメ編。私が映画に興味を持ち始めた70年代末から80年代初頭にかけてのハリウッドはまさに彼女の天下だった。オスカー受賞はもちろん、そのライフスタイルまでもが注目されたものだ。

 ところが80年代も半ばを過ぎると、彼女の身上である“自然体の演技スタイル”よりも“熱演型”が持てはやされるようになる。しかもかつて彼女やジル・クレイバーグらが演じた“進歩的な女”の末路を描いた「危険な情事」なんていう映画が封切られるに及んで、ますます彼女の居場所が無くなってきた。

 しかし時代はまた移り、酸いも甘いも噛み分けた中高年男女の恋愛を自然なタッチで描く映画も作られるようになると同時に、彼女の出番が回ってきたのだ。今回の相手役がジャック・ニコルソンというのも感慨深い。いわば“70年代に翔んでいた女”と“60年代に極道者だった男”との恋愛だ(笑)。

 ナンシー・メイヤーズの演出は軽妙洒脱で、会話の面白さはもちろん音楽や舞台セットもセンス満点だ。フランシス・マクドーマンドやキアヌ・リーヴスといった脇のキャスティングも万全。少々上映時間が長すぎる気がするが、近年珍しい“大人の映画”としての存在価値は高い。
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「ドリームガールズ」

2007-03-01 06:45:54 | 映画の感想(た行)

 (原題:Dreamgirls)ドラマ面では見るべきものはない。各キャストも深みのある演技なんかしていない。演出も凡庸の極みだ。ならば何があるのかというと、音楽のみである。

 60年代のデトロイトから世に出た女性三人組のグループを追ったストーリーの中で、往年のモータウン・サウンドがてんこ盛りに挿入される。特にメンバーの一人であるジェニファー・ハドソンの歌声はパワフルかつ伸びがあり、観客を圧倒。しかし、この手の音楽に興味のない者にとっては関係のない話だ。

 もとより作劇は脆弱であるため、ソウル・ミュージックの門外漢をも映画の中の音楽に引き込むような仕掛けも力業もない。さらに、ゴリゴリのブラック・ミュージックを追求しようとするハドソン演じるエフィーと、白人のマーケットも視野に入れたマネージャーのカーティス(ジェイミー・フォックス)の確執も、完全に“語るに落ちる”ような話だ。当時の音楽シーンに思い入れがないとピンと来ないのではないか。

 個人的には豊かな声量で押しまくるハドソンよりも、抜群のルックスとキュートな歌声で魅了するビヨンセ・ノウルズの方が断然好きだし、彼女をメインヴォーカルに据えようとするプロモーターの姿勢は大いに納得する。それに対するハドソン側の言い分が“自分の方が黒人音楽の本流だ”みたいな感じだけでは、広範囲な支持は集められないだろう。

 それにしても、私が観た映画館(某シネコン)の音の悪さには参った。高音は歪みっぽく、ヴォーカルも割れまくり。低音なんてほとんど出ていない。昨今の米国の、この手のディスクの録音水準から勘案するにサントラがそれほど音が悪いわけはないので、問題は劇場側だろう。近頃はホームシアターが普及し、画像はまだフィルムに敵わないまでも音響に関してはカネのかけ方と使いこなし次第で相当のレベルまで持って行くことが出来る。対して一般の劇場がサウンド面でホームシアターに後れを取ってどうするのだろうか。何とか手を打たないと、映画館での鑑賞のアドバンテージは限りなく小さくなる恐れがあると思う。
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