元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「めぐり逢う朝」

2018-05-05 06:29:39 | 映画の感想(ま行)
 (原題:TOUS LES MATINS DU MONDE)91年フランス作品。“音楽は他人のために奏でるものではない。もちろん、神のためのものでもない。音楽は死せる人々に聴かせるためにある”。これは主人公サント・コロンブのセリフだが、自己の感受性を砥ぎ澄まし、純粋に芸術に対峙させなければ真の音楽は得られないと考えるコロンブの厳しい生き方があらわされている。

 17世紀フランス。ヴィオラ・ダ・ガンバ(ヴィオル)の名手にして高名な作曲家であるサント・コロンブは愛する妻を病気で失い、その死に目にも会えなかった。性格がいっそう峻厳になり、人にあまり会わず、外出もせず、森の奥にある屋敷で二人の娘とひっそりと暮らしている。敷地の中にある小屋で演奏と作曲に明け暮れる毎日。ときおり現れる妻の亡霊に話しかけることだけが唯一の楽しみである。

 ある日、ヴィオル奏者を目指す若者マラン・マレが訪ねて来て、弟子にしてくれと言う。マレは技量において最高レベルにあったが、演奏にいまひとつ迫ってくるものがない。それでも無理矢理に弟子入りしたマレは、名声を野心的に求めるあまり、コロンブの長女と関係を結び、彼女の手引きで床下に忍び込んでは師匠のテクニックを盗もうとする。やがて師匠の怒りにふれ、マレは破門される。その後、宮廷音楽家として成功した彼は、用済みになった長女を捨て、宮廷に確固として地位を築いていくのだが・・・・。



 年老いたマレの顔のアップから始まる。偽善を悔やみ、過去のあやまちを現在の弟子たちに話すマレの苦渋に満ちた表情。このシーンを見て誰でも思い浮かべるのは、やはり音楽家を描いた「アマデウス」の冒頭場面だろう。コロンブとマレの関係は、モーツァルトとサリエリのそれと似ているかもしれない。

 しかし決定的に違うのは、「アマデウス」ではモーツァルトの天才ぶりとサリエリの凡庸さとの対比を際立たせて描いたのに対し、この映画の二人はともに天才であるということ。またモーツァルトがサリエリから何も影響を受けなかったのに比べ、ストイックで楽譜も残そうとしないコロンブもいつしか世俗的名声を求めるマレの感化を受け、自分の作品を世に出したいと思うようになることだ(そのおかげで現在我々はコロンブの作品を楽しむことができるのである)。

 神に選ばれた天才モーツァルトと凡人サリエリは最後まで違う人種であり、お互い心の底から理解し合うことはない。しかし、コロンブとマレは性格と表現方法が正反対であるにもかかわらず、芸術に対する真摯な態度など、根は同じ人間である。そしてマレはコロンブを音楽家として理解し尊敬している。また(程度の差こそあれ)その逆も真であり、つまりはコインの裏表としてのふたりの相克を描く作品と言えるかもしれない。

 孤高と野心、厳格さと快楽、信頼と裏切り、罪と贖罪、相反する二つの事象を並立させる構図により、この映画は主人公ふたりの愛憎劇を通して、人間性の光と影といった深い二重構造を描き出している。そしてこの構造は、人間性のみならず、音楽と言語、音楽と絵画、さらに言えば具象性と抽象性、形而上と形而下といった芸術の真髄に関わる問題にまで鋭く迫っていく。

 “言葉で語れないものを語るのが音楽だ”、コロンブは力を込めて語る。音楽は時間の芸術だと言われる。美しいと思う瞬間はその場限りで、それはただ過ぎ去って行く。言葉・文字という“記録方法”を持つ文学とは決定的に違う。当然、絵画とも異質だ。だからこそ、“音楽は技巧の羅列ではない。楽譜は単なる指標であってその心までは伝えない。その瞬間瞬間が生み出す即興性こそが命だ”というコロンブの言葉が真実味を帯びてくる。

 では総合芸術と呼ばれる映画とはいったい何であろうか。その真の姿がラストシーンに集約されている。創造と破壊も、光と闇も、現実と超現実も、すべてが調和する完全な空間こそが映画ではないか。そういう作者の主張がヴィヴィッドに伝わってくる、見事な幕切れだと思う。



 それにしても、この映画の美術、映像、音楽。素晴らしいの一言だ。ほとんどのショットが当時の名画を思わせる色彩の優雅さと構図の確かさで観る者を圧倒する。コロンブが画家に描かせた、亡き妻が夜ごとあらわれる部屋の静物画が、実際の部屋の風景とシンクロしていく場面の映像処理などは息を呑んだ。

 そしてジョディ・サバールによる音楽は、サバールの自作とコロンブ、マレの代表作を散りばめた極上のもの。ヴィオルというあまりポピュラーではない楽器のきれいな音色を存分に味あわせてくれる。演奏も実に美しい(思わずサントラ盤を買ってしまった私である)。コリンヌ・ジョリの衣装も見事なものだ。

 演技面では、コロンブを演じるジャン=ピエール・マリエルの存在感が光る。信念に生きる孤独な音楽家そのものである。マレ役のジェラール・ドパルデューは、いつものアクの強さを抑え、鼻もちならないイヤな奴に思われがちなマレという人物を、彼なりに懸命に生きたのだと納得させるだけの演技力を発揮している。若い頃のマレにはドパルデューの息子ギヨーム・ドパルデューが扮しているのが御愛敬。コロンブの長女を演じるアンヌ・ブロシェは「シラノ・ド・ベルジュラック」ではあまり感心しなかったが、ここでは、もう痛々しいほどの熱演を見せており、作品の厚みに一役かっている。監督はアラン・コルノー。92年セザール賞7部門独占。観る者を粛然とさせる、フランス映画の傑作である。
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