元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「トスカーナの贋作」

2011-05-15 06:59:54 | 映画の感想(た行)

 (原題:Copie Conforme)わくわくするほど面白い。本作のテーマは“人生における真実とは何か”ということだ。まさに大上段に振りかぶったような主題であり、愚直に正面から取り組もうとすれば鼻持ちならない結果に終わるようなネタだが、巧妙な設定と卓抜な脚本さえあれば、かくも味わい深い作品に結実するのである。

 イタリアの南トスカーナを訪れた英国の作家(ウィリアム・シメル)が、現地で美術商を営んでいるフランス人女性(ジュリエット・ビノシュ)と偶然知り合う。ありふれた出会いのように見えたが、二人で立ち寄ったカフェの店主に夫婦と勘違いされてから、様子が変わってくる。何と彼らは周囲と調子を合わせるように夫婦を演じ始めるのだ。最初は冗談のつもりだったが、いつの間にか夫婦の会話そのものとなってしまう。

 二人とも、配偶者には恵まれていない。特に女は生意気盛りの男の子を抱えるシングルマザーでもある。幸せな家庭生活を夢見ていたはずなのに、どこをどう間違ったのか。だが、そんな悩みは“個的なもの”なのだろうか。実は、自分のケースは決して“特殊なもの”ではないのだ。なぜなら、見ず知らずの者を相手に夫婦を演じられてしまうのだから。

 女は男の顔を見て“あなたは髭を一日おきにしか剃らない。結婚式の日にも髭を剃ってこなかったんだから呆れるわ”と言う。対して男は“そういうお前はいつも機嫌が悪い。俺が疲れて眠ったからって、それがどうした”と返す。パーソナルな話題だと思ったら決してそうではなく、誰にでも当てはまる事象に過ぎなかったりする。ならば自分の人生とは一体何なのだ。

 男の新著は「本物と贋作」。本物の価値を証明する意味で、贋作にも価値があると説く。夫婦の振りをしている二人の関係は贋作そのものだ。しかし、劇中で本物と同様に親しまれている贋作の絵画が紹介されるように、マクロ的な基本パターンというものが決まっている人生においては、全てが贋作だ。それが悪いということではない。皆その贋作の中で精一杯生き、最後には自分だけの“本物の人生”に到達するのだ。

 さらに、本作が名匠アッバス・キアロスタミによって撮られていることにより、一層興趣は増す。過去の作品において素人中心のキャストを起用してリアルとフィクションの垣根を取っ払ってしまったキアロスタミだが、本国イランを離れて製作したこの作品にもそのメタ映画的方法論は健在だ。人生の真贋を見極めることと同時に、演技のリアリティにも肉迫している。

 果たして、演じている俳優達はカメラが回っている間キャラクターになりきってリアルに生きているのか、それとも徹頭徹尾演技に集中しているのか。また、演技者は役柄を自分で引き寄せているのか、あるいは演目の方から俳優に近付いているのか。もちろん、双方に優劣はない。だが、役に成り切ることと“演技”と割り切って徹することのポジションはどうなっているのか。どこで線を引けば優れた映画たり得るのか。どのスタンスが本物(あるいは贋作)なのか。そういう問題提起を挑発的に観客の側に差し出す大胆さ、そしてその手順の鮮やかさに、心底感服してしまうのである。

 本作でカンヌ国際映画祭の主演女優賞を獲得したJ・ビノシュのパフォーマンスは素晴らしい。特に“偽物”の夫に対してアピールするためルージュを引くシーンの生々しさは圧巻だ。W・シメルは俳優ではないが(本職は歌手)、渋みの利いた空気感を醸し出していてよろしい。もちろん、トスカーナの地域色も大々的にフィーチャーされていて、観光気分も味わえる。一般的な娯楽映画の面白さとは離れた位置にある作品ながら、このヴォルテージの高さはただ事ではないだろう。本年度を代表する秀作である。
コメント
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