元・副会長のCinema Days

映画の感想文を中心に、好き勝手なことを語っていきます。

「あした」

2007-07-23 06:44:22 | 映画の感想(あ行)
 95年作品。今も相変わらず意欲的に製作を続けている大林宣彦監督だが、あまり食指が動かないのは、彼には秀作と同程度に駄作の数も多く、最近の作品もその類ではないかと思ってしまったからだ。その駄作群の中でひときわ“光っていた”のが本作。傑作「ふたり」に続く大林宣彦の“新・尾道三部作”の第2弾という触れ込みだったシャシンだ。

 嵐の夜に瀬戸内海で沈んだ連絡船。1年後、犠牲者の遺族・恋人に“午前0時に呼子浜で待っている”とのメッセージが届く。半信半疑で集まった彼らが見たものは、暗い海の底からこの世に一晩だけあらわれる連絡船の姿だった・・・・。原作は赤川次郎。

 敗因はズバリ、ドラマの対象を広げすぎて“集団劇”にしてしまった点である。これまでの彼の映画は作者の思い入れが強い主人公を中心に、濃密な描写で観客の琴線に触れるような演出スタイルをとっていた。それが集団劇だと密度が分散されて薄味になることは必至なのに、なぜに今回柄にも合わない形式に挑戦したのか。単なる伊達酔狂か、目先の新しさを狙っただけだろうか。いずれにしろホメられた態度ではない。

 集団劇を作る際、大林は残念ながらロバート・アルトマンのように、一見バラバラに見える個々の描写をジワジワと束ねて最後にアナーキーな結論をデッチあげる、といったイヤらしい力技や屈折しまくったシニカルさは持ち合わせていない。いつものように対象を真摯に描こうとすると、時間が足りずに尻切れとんぼのまま次のエピソードに移る。結果、別々に描けばそれなりの成果が出る素材であっても(たとえば妻と孫を亡くした老ヤクザの話など)、集団劇の中に埋没してまるで要領を得なくなる。

 冒頭、小学校の教室で児童たちが「浜辺の歌」を歌う場面から好きな男の子と離ればなれになる女の子のエピソードがある。明らかにこれが映画の中心となるような前振りだが、女の子の成長した姿である女子大生(高橋かおり)も呼子浜に来るにもかかわらず、彼女のエピソードは沈んだ連絡船とは直接関係ないのだ。チンピラになった昔の男の子(林泰文)のために意味もなく身体を与えるという、噴飯ものの結論しか与えられていない。

 連絡船に乗って死んだ水泳のコーチ(村田雄吉)を慕う女(洞口依子)のエピソードも、亡くなった社長をめぐる妻(多岐川裕美)と秘書(根岸季衣)の葛藤も、死んだ妻子を浜の外に連れだそうとする男(峰岸徹)の話も、すべて予定調和で底が割れている。演出と脚本の工夫があればボロの出ないエピソードでも、集団劇であるがために目が行き届かず、チンケなメロドラマに堕している。そして極めつけは、連絡船のデッキの上で歌うナゾの女(原田知世)。何しに出てきたのかわかんないし、原田のド下手な演技で画面がイッキにシラけてしまった。

 尾道ロケにもかかわらず、あの町の美点が出たのは冒頭だけ。呼子浜の描写など、どこで撮っても同じだ。これがまあ、2時間20分の長さ。大林って出来不出来がけっこう激しいけど、尾道を素材(いちおう)にこんなものしか撮れなかったという、ある意味“画期的な”映画だと思う(脱力)。
コメント
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