惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

「定型」について

2010年11月15日 | チラシの裏
内田樹の本の書評の最後のところで触れた話に少し補足してみる。

わたし自身はオヤジ系週刊誌の記事を書いたことはないから、そこで用いられている「定型」なるものが具体的にどんな形態としてあるのかは判らない。ただ普通に想像すると別に何か「マニュアル」のような形で文書化されているわけではないだろう。そんなことしなくたって実物の記事を読んでみれば「ああこのへんがハンコだな」と判る。書き手の目線を行使しながら読むならば、である。件の女性編集者は自分でも工夫しつつ、時々は先輩同僚の助言を受けたりもしながら「定型」の書き方を身につけて行ったのではないだろうか。

だいたいはそのように察せられる。で、そうだとするとかの本の著者内田樹は何という冷たいヤローだということになるしかない。いったん身についてしまえば「あとは捺すだけ」のハンコ記事だと言ったって、身につくまでにそれ相応の修練はいるのである。今はすっかり左前になったオヤジ系週刊誌でも内田のblogよりは読まれている。「『世の中、要するに色と慾』というシンプルでチープな図式」と、本当はただそれだけ言ってしまえば済むことを、いちいち何ページかの記事に膨らませ、それを束ねて雑誌にして、曲がりなりにも十万部単位で読者に売りつけるだけの簡単なお仕事です。詐欺っちゃ詐欺だが、やれるもんならやってみろである。そしてこうした詐欺を含まないメディアなど、現在はもちろん過去にも存在したことはない。内田は自分だってもの書きのくせに、まさか自分はそんな詐欺にはかかわっていないとでも言う気だろうか。

「『これは私が書きたいと思って書いたことであり、それが引き起こした責任を私は個人で引き受ける』と言う人間がどこにもいなくなった」などと個々人の責任感に帰したりするのはお門違いの筋違い、ついでに見当違いなのだ。どこの世界にそんなご立派な責任感の持ち主などがいたためしがあるか。オヤジ系週刊誌なら言葉ひとつ間違えただけで「ヤクザ」が怒鳴り込んで来ることだってあるだろう。蛇の道はヘビである。詐欺を事とするメディア業界には黙ってたってどこかから「ヤクザ」が絡んでくる。そこで「これは私が書きたいと思って・・・」なんて言うやつがあるか。冗談じゃない、丁重にお詫びして「今後ともご指導ご鞭撻の程、宜しくお願い致します」とか何とか言うのである。

「定型」のハンコ記事を男性ライターや編集者が書くのと、女性編集者が書くことの間の、ハンコ記事の字面にも現れない差異とは何かと言ったら、こうした「ヤクザ」の存在論にかかわってくるわけなのである。ヤクザといえども勢い込んで怒鳴り込んでみたところが、難癖つけたい当の記事を書いていたのがうら若き女性編集者で、その記事というのも、「中国語の部屋」ならぬ「オヤジ用語の部屋」で黙々とハンコを捺し続けていただけだと知ったら、さすがにしばし呆然とするだろう。それが哲学の驚きである。

メディアの危機というのは業界が、寓意的に言えばざっとこんな形でもって「ヤクザ」みたいな存在と本格的に手を切ろうとしたことに始まり、いまや終わりを迎えつつあるのである。「ヤクザと手を切ったら自慢の本棚も消え失せたでござるの巻」だ。下部構造が上部構造を規定するというのは、本当はこういうことを指して言うべきなのである。本棚を呼び戻せば当然ヤクザも呼び戻ってくる。そんなに本棚のスノビズムが大切だったら呼び戻すしかあるまい。だが、コンプライアンスのファシズムやスターリニズムがそれを許すだろうか。タバコ一本おちおち吸えなくするほどの連中がそんなこと許すわけがない。かくてかの業界の進退は窮まったのである。
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