惰天使ロック

原理的にはまったく自在な素人哲学

雑記

2016年04月29日 | 『言語美』要約プロジェクト
「要約のためのメモ」が思いがけず長くなってしまっているので、それとは別系列のメモを書きとめておく。

(I)

いま「要約のためのメモ」で書いている内容は早いうちにアップデートしなければならないようである。

「メモ」で書いていることは単独の原始人をモデルにしていて、原始人どうしの「社会的交通」ということは勘定に入っていない。実際、I章2節までの記述を読む限りではそれで十分ではないかと思われたのであるが、I章3節を読んでみるとどうも吉本の考える「自己表出」の成立にはそれ(社会的交通)が不可欠であるとしか思えないのである。

つまり、声色や音程の差異が様々にありうる中で音韻という共通性が抽出され、それが「意識の自己表出としての音声に高められたことと対応している」ということは、社会的交通の存在を前提しなければ言えないわけである。

(II)

書く予定の「要約」について。要約と言って、原著の目次構成はそのままに中身だけ要約するということは最初から考えていない。原著の目次構成はそれなりに理由があってあの構成になっているのだが、その理由は『言語美』が書かれた時代状況と無縁でないということがある。はっきり言えばマルクス主義的な言語観と機能主義的な言語観という党派的あるいは個体的な理論の双方を退けて、普遍的な理論を作りたいということと、それまでのあらゆる言語理論が無視してきた、吉本の用語で言えば「自己表出」の概念を言語の本質として理論の中にきちんと位置づけたいというモチーフが強くあるわけである。1960年代のわが国の状況においてはどうしてもそれが最重要の課題だと吉本には思われていた(おそらく実際にもそうだった)ということだ。

原著の初版から数えてもすでに半世紀以上を経た現在、そのモチーフに固執する必要はおそらくない、というか、現在のほとんどの読者にとってこれらは『言語美』の本来の問題意識をかえって見えにくくしてしまう要因になってしまうような気がする。これを書いている現時点でのわたしの構想では、要約は第II章の「意味」「価値」論から始めるのがいいのではないかという考えに傾いている。つまり「字面上はただ自然の景物を並べただけのような詩歌がなぜ美であると言えるのか」ということだ。当時はもちろん現在でもそれを説明する言語理論はない。『言語美』がそれに成功しているかどうかはさておき、これが成功していないのなら、成功している理論は絶無であることはたしかだ。他にあるのなら、たとえば機械翻訳の不可能性を示す「時蠅は矢を好む」問題は(実装的にはともかく理論的には)とっくに解決されているだろうし、いまどきまたぞろ人工知能などが変なブームになったりもしていないはずだからである。

(III)

2001年に書き加えられた「文庫版まえがき」には「指示表出性が強い言葉は人間の感覚器官との結びつきが強い言葉だ。一方、自己表出性の強い言葉は、内臓のはたらきの変化、異変、動きなどに関係が深い言葉だ」という意味のことが書かれている。『言語美』以来の自分の考えを三木成夫の業績に関連づける中でそう考えるようになったということも書かれている。

正直に書いておくと、わたしは三木成夫の著作を読んでもその記述にほとんど納得することができなかった。言ってることが間違っているとか、そういう話ではなくて、これを科学と言われたら科学が困る(笑)という困惑がどこまでもつきまとって、わたしのような根っから理科系こんこんちきの男にはどうしても冷静に読み通せない本だということだ。

晩年の吉本がなぜ三木成夫説にあれほど入れ込んだのか、今でもよく判らないのだが、今回『言語美』を読み返していてふと思ったことは、吉本にとって三木成夫説は心身問題の解とは言わないまでも、解に近づく考えだという風に思われていたのかもしれないということだ。

それが心身問題の解と呼べないことは明らかだ。仮に内臓のどこかに心の本源があるのだとしたら、人間の生物的な身体構成を「機能的に」再現したロボットや「人工知能」はやはり心をもつことになるはずだし、そうしたロボットや「人工知能」を構成することは、まさしく「原理的にはまったく自在」なことである。つまり内臓説は、言語や心のスターリン主義リバイバルみたいな脳神経原理主義よりはずーっとましだというだけで、突き詰めて行けば心の機能主義に帰着してしまうという点で大差のないものだ。機能主義をどう捻っても「消去主義か多重決定か」という心的因果のディレンマを解くことはできない。そのディレンマを疑似問題として退けられるのはわたしの解決だけである。

それでも三木-吉本説が脳神経スターリン主義などより「ずーっとまし」で、解そのものではなくても解に近づく考えだというのは、つまり三木-吉本説の根幹には植物性→動物性→人間性という一種の発展段階説が認められるからである。これは見方を変えれば、生物的身体の外へ無限に拡がる非コンパクトな人間の身体を、いわば生命のコンパクトな〈歴史〉記述に変換したものだと言えなくもない。もともと〈歴史〉とは現在の人間世界を(そこに含まれる個々人や集団の関係性の非コンパクトな総体を)コンパクトな〈歴史〉記述に変換したものであり、またそう考えられることによってのみ意味のある記述や知識だと言っていい。そう考えれば三木-吉本説は心身問題の解ではなくても「解に近づく」考え方だとまでは言えると思う。
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