戦前は墨田区本所で下駄屋を営んでいましたが、
戦後、葛飾区四つ木に移り住んでセルロイド加工業を始めました。
祖父と父、それにプレス職人や女工さんが働きに来ていて、
セルロイド玩具やピンポン玉を作っていました。
私は幼かったのでおぼろな記憶しかありませんが、
仕事はかなり盛業だったようです。
当時はセルロイドの屑が高く売れたので、
祖父はその屑に水を掛けて引取業者に渡したそうです。
それは目方を増やして、高く買い取らせるためでした。
このエピソードは後年、生地問屋の社長から聞きました。
昭和25年に祖父が亡くなり、26年には家業が不振になり、
四ツ木の家は金貸しに取られてしまいました。
父と家族は葛飾区立石の二軒長屋へ越しました。
戦後、葛飾区四つ木に移り住んでセルロイド加工業を始めました。
祖父と父、それにプレス職人や女工さんが働きに来ていて、
セルロイド玩具やピンポン玉を作っていました。
私は幼かったのでおぼろな記憶しかありませんが、
仕事はかなり盛業だったようです。
当時はセルロイドの屑が高く売れたので、
祖父はその屑に水を掛けて引取業者に渡したそうです。
それは目方を増やして、高く買い取らせるためでした。
このエピソードは後年、生地問屋の社長から聞きました。
昭和25年に祖父が亡くなり、26年には家業が不振になり、
四ツ木の家は金貸しに取られてしまいました。
父と家族は葛飾区立石の二軒長屋へ越しました。