きさらの詩

主婦「きさら」の日々の暮らしを書いています。
できるだけ ぼやくのはやめて 明るく~

「記録つづく 昭和52年(1977)」

2020-05-30 18:03:09 | 建築
入社後2年半して
私の属する課が 神戸支店から憧れの大阪本社に 移動したのですが
すでに新人でもなく 気の弱い私は ハツラツ女性の多い大阪には馴染めず
大阪の街を満喫することもなく 結婚するあてもないのに 退社しました。

そして恋愛はあきらめ お見合いで結婚しました。
25歳になるひと月前に なんとかゴールイン。
当時は25歳までというのが 暗黙の了解だった(と思っていました)
私の少女の頃の予想では 23歳に結婚するはずだったのです(笑)
短大卒だったので 友人たちの中では 一番遅かったです。

さて
1977年の主な出来事です。

*日本初の静止気象衛星「ひまわり」打ち上げ
*日本赤軍が日航機ハイジャック、政府は要求受諾

「流行歌」

「津軽海峡冬景色」石川さゆり
     (演歌はあまり好みではないけれど この歌は大好き)
「勝手にしやがれ」 沢田研二
「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」 ピンクレディ

「テレビ」
 
「風見鶏」 

主人公は神戸のパン屋さんで これで一気に神戸が観光地化しました。

「岸辺のアルバム」  竹脇無我と八千草薫の共演。不倫ものでしたけれど
 印象に残るドラマでした。

「物価」

映画観覧料 1230円
国鉄初乗り 60円



今日郊外へ出かけたら
田植えの終わった田んぼが とてもきれいでした。
日本の初夏の風景ですね。













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「記録 つづき 1972年」

2020-05-27 12:03:05 | 歴史
昭和47年(1972年)

20歳になりました。
成人式は体育館。
振袖を着て参加しましたが 迎えに来てくれる彼もなく~
午後からは 着物を脱ぎ棄て クラブ活動へ。。。

そして春には
短大を卒業 OL生活のスタートです。

これまで 親の敷いたレール上を
幼稚園・小学校・中高短大と
三歳上の姉の後をたどり続けてきましたが
ここにきて 初めて 自分の意志で 進路を決定し
憧れのOL生活が始まりました。

入社したのは大手商社でしたが 何故か配属されたのは
小さな神戸支店で 家庭的な雰囲気は まあ良いとしても
男性が 皆一回りも上のオジサンばかり~で
哀しかったです。


主な出来事

「札幌冬季オリンピック」 
  さわやかなトワエモアの歌うテーマソングが 鳴り響いていました。

「連合赤軍によるあさま山荘事件」

このニュースは 
ボーイフレンドとデート中のお寿司屋さんのテレビで見ました。
私の誕生祝に 寺山修司の「愛さないの愛せないの」を貰いました。
今でも大切に本棚にしまってます。

「高松塚古墳で極彩色の壁画発見」 わくわくしましたねえ。

「沖縄が米国から返還され 沖縄県発足」
            これもスゴイニュースでしたねえ。
            返還前に沖縄に行く若者が多かったです。



「流行歌」
 
  ( 瀬戸の花嫁) 小柳ルミ子
 (旅の宿 )  吉田拓郎

「出版」

 「日本列島改造論」 田中角栄

「テレビ」
 
「太陽にほえろ」  「木枯し紋次郎」

「流行語」 
 お客様は神様です  若葉マーク 

「物価」
 はがき  10円  封書 20円
 カシオミニ(計算機) 12800円






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「昭和45年(1970)の記録」

2020-05-25 09:04:30 | 歴史

う~ん
このあたりは 私の青春時代~♪ です。
短大生になりました。
中高短大とエスカレーター式の学園なので
あまり変化はなかったですが 
セーラー服を脱ぎ 私服で通学するようになりました。

毎日 夕方になると明日着ていく服を あれこれ迷いながら用意しました。
ミニスカート全盛時代。 ベルボトムジーパンも流行っていました。

短大でも またマンドリンクラブに入部してしまいました。
フォークソング部とどちらにするか 迷ったのですが~
自分がとても音痴なのを自覚していたので やめました。


主な出来事

*「日本万国博覧会」  (こんにちは~ こんにちは~ 世界の国から~)
              三波春夫の元気な歌声が 鳴り響いていました。

*日航機「よど号」ハイジャック事件 テレビにくぎ付け。
*三島由紀夫 割腹自殺
*政府、日本の呼称を「ニッポン」と統一

流行歌

「黒ネコのタンゴ」 皆川おさむ
「手紙」 由紀さおり

出版

「日本人とユダヤ人」 どんな内容だったのだろう? 読んだのかな?
              チェックしてみよう。

「冠婚葬祭入門」  塩月弥栄子 
            どこの家庭にも あったのではないかな~
テレビ

「時間ですよ」 懐かしくて 時々 ゆーちゅーぶで見ています。
「遠くへ行きたい」

流行語

「ハイジャック」
「歩行者天国」「ウーマンリブ」 

物価

たばこ(ハイライト) 80円
万博入場料 大人 800円 青年600円 小人 400円














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「司馬遼太郎が考えたこと1」

2020-05-22 18:21:45 | 読書

「産経新聞 80年をふりかえる」の続き

昭和42年(1967)

私は高校生になりました。
中高一貫教育なので 受験はなし。
中3の終わりに マンドリンクラブに入部しました。
ずっとおちびちゃんだった私の身長が どんどん伸びていっています。
この年に 眼鏡をコンタクトレンズに替えました。


さて
世の中の主な出来事
あまり特筆するようなものは見当たりませんが~

*日本血液銀行協会が 売血の全廃決定。(そんな協会があったのねえ)
* 首相は佐藤栄作

流行歌  「世界は二人のために」  佐良直美  流行りましたねえ。
     「ブルー・シャトウ」   ジャッキー吉川とブルー・コメッツ
     「夜霧よ今夜もありがとう」 石原裕次郎

テレビ  「スパイ大作戦」「コメットさん」

流行語   フーテン ヒッピー アングラ 蒸発 ボイン(笑) ミニスカート

物価   牛乳(180cc)20円 リカちゃん人形 750円 (私は持っていない)


さて 先日 「司馬遼太郎が考えたこと1」というエッセイ集を購入しました。

15巻にもなる このエッセイ集(文庫)が出版されたのは 平成17年のことですが
私が書店で発見したのは つい先日です。
まだ読み始めたばかりですが この第1集は 1953年10月から始まっているので ちょうど 今読んでいる 産経新聞の記録とも重なっていて とても楽しいです。 
司馬さんの作品は小説より エッセイの方が好きかもしれません。
彼の考え方は とても自由奔放でありながら 何に対しても優しいのです。
まだ 1巻というのが うれしいです。 まだまだ楽しめますから。。。


夫が近場散歩に飽きたというので
車で少しだけ遠出して そこで歩きました。
兵庫県の丹波篠山市です。
お城はもうないのですが(大書院だけ再現されている)
石垣を眺めるのが好きです。












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「今の心境」

2020-05-18 11:20:33 | わたしの心

コロナ不安に押しつぶされそうな日々が続いてきました。
もちろん今でも 感染の可能性は消えてはいないけれど
不安感に慣れてしまっているというのも事実です。

電車に乗らない お稽古に行かない スーパーのレジでは距離を取る
食材の買い物は ほぼ週に二回ほど。(以前は 一日おき)
夫も 滅多に会社に行かない。
それが日常となってしまいました。

ここで はたと気づいたことがあります。
お稽古は どれも楽しんでいましたし
お稽古仲間とのトラブルもないです。
それでも やはりあまり気の合わない人もいるし
自分に向けた言葉に傷ついたり 傷つけてしまったのではないかと
反省したり~ ま それなりに ふつふつと思うこともあるわけです。

それが この家ごもりの日々では 皆無です。
そいう意味でのストレスは なくなっています。
夫が長時間在宅していることと やたらと話しかけられること
お昼ご飯の用意などの不満を覗けば ま やり過ごせる範囲です。

特に会いたいなあ お話したいなあ~と切望する人もいないし
こちらから電話して 近況を言い合った人が数名。
向こうから連絡してきてくれた人も 数名。
これって どうなんでしょう?

日頃から 周りの人とは それなりの距離を取り
密につきあってこなかった私です。
おけいこも仕事もしてない主婦は
いったい家の中で何をされてるのだろう?と 疑問に思っていましたが
いま まさに 自分がその境遇となりました。
いつか 病気や加齢の為 
すべてのお稽古はできなくなる日も来るのだろうなあと
思ってきたことも現実となりました。
ただ この状態は 誰もが同じだし そのうち また 元通りに復活するに
違いないと 思ってはいますが。。。


・・・で
一体何が言いたいかと言いますと(笑)
結論は出ないので
正直に今の心境を記録しておくだけです。

全てのお稽古をやめれば ストレスはなくなるのか?
というものでもないです。
お稽古仲間とのおしゃべりは やはり楽しいことが多いのですから。
ただ 皆の意見 想いと違うときに
なんだか 淋しい気持ちになってしまうのが問題なだけなのです。
親戚の一回り年上の男性で
リアイアしてからも 積極的に何かに参加することもなく
奥さんが亡くなってからは ひたすら散歩と筋トレの日々ですが
たしかに 人間関係のストレスは皆無ですが 私は ああいう生き方も
できないのだろうなあと思います。



******
「産経新聞 80年とふりかえる~」の 続きの記録も書いておきますね。

昭和39年(1964年)  
 私は12歳 中学一年生(セーラー服があまり似合ってなかった女学生でした)

主な出来事

ジャンジャカジャ~ン
  アジア初の開催「東京オリンピック」開会
     当時テレビっ子だったので ずっと見ていました。

  ミロのビーナスが 日本へ~(京都に見に行きました)

  東海道新幹線 開通 

流行歌
  「愛と死をみつめて」 ミコとマコの物語でした。
  「幸せなら手をたたこう」 流行りましたねえ。

テレビ
  「ひょっこりひょうたん島」
  「ミュージックフエア」  
流行語
  「ウルトラC」 オリンピックの体操競技から
新商品
  「かっぱえびせん」 

物価
  かっぱえびせん(130g) 50円
  週刊誌       50円
  タクシー初乗り   100円

 
  オキザリス








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