瑞原唯子のひとりごと

「東京ラビリンス」第1話・怪盗ファントム

「遥、澪、おまえたちは今日で17歳だな。おめでとう」
「ありがとうございます、おじいさま。このドレスも」
 橘 澪(たちばな れい)は、正面に座る祖父に笑顔で応えると、身に付けている薄いベージュのパーティドレスを軽くつまんで見せる。それを見た祖父の剛三(ごうぞう)は、満足げに頷きながら、広い執務机の上で両手を組み合わせた。
「二人ともよく似合っておるぞ」
「こんな服、どこで着ればいいわけ?」
 澪の双子の兄である遥(はるか)も、祖父からの誕生日プレゼントを身に付けていた。澪のパーティドレスと対をなすダークスーツである。しかし、澪とは違ってあまり嬉しそうにはしていない。もっとも、遥はいつもこんな調子であり、剛三は慣れているのか気にすることなく答える。
「心配せずとも機会ならいくらでもあるぞ。おまえたちも、そろそろワシの同伴でパーティに連れて行こうかと思っておるのだよ」
 パーティといっても、いわゆるホームパーティの類ではない。会社関係やその付き合いで呼ばれるレセプションのことである。詳しいことは澪も知らないが、取り立てて楽しいものでないことは想像がつく。少し気が重くなったものの、それを口には出さずに愛想笑いを浮かべた。しかし、遥の方は、無遠慮に言葉を吐き出す。
「興味ないけど。むしろ面倒くさい」
「そう言うな。いい社会勉強になるだろう。特におまえは橘の後継者なのだからな」
 これという議論がなされたわけではないが、暗黙の了解で、男である遥が橘家の後継者として扱われていた。おそらく古い人間である剛三の一存なのだろう。
 だが、それで揉めたことは一度もない。
 いささか無愛想ではあるものの、聡明で思慮深く、冷静に物事を見通す力がある――そんな遥を後継者とすることに、異を唱えるものは誰もいなかった。もちろん澪とて例外ではない。遥の方が相応しいということには納得していたし、それ以前に、橘家を継ぐことなどに何の興味も持っていないのだ。押しつけられなくて良かったと喜んでいるくらいである。
「社会勉強、頑張ってね」
「澪は気楽で羨ましいよ」
 にこにこしながら発破をかける澪に、遥は溜息まじりで恨み言を口にする。実のところ、彼も後継者など乗り気でないらしいのだが、だからといって反発することはなく、仕方がないと観念しているようである。
「17歳か……」
 剛三は肘掛けに両腕を置き、革張りの椅子に体重を預けると、遠くを見やりながら感慨深げに呟いた。そして、後ろに控えていた秘書の楠 悠人(くすのき ゆうと)に振り向いて口もとを上げる。
「とうとうこの日が来たな」
「ええ、準備は万端です」
 そんな意味ありげな会話を交わすと、剛三はすぐさま澪たちに向き直った。怖いくらい真剣な眼差しで見据えながら、静かに重々しく切り出す。
「他言無用の大切な話だ。心して聞いてほしい」
 16歳の誕生日のときには、似たような前置きのあとで、株式投資を始めろという話をされた。今回も、社会人としての勉強になる何かを始めさせるつもりなのだろう。やっかいなことでなければいいけれど――澪は心の中で願った。
 しかし、続く剛三の言葉によって、その願いは儚くも打ち砕かれる。
「今日からおまえたちは怪盗になるのだ!」
「……かいとう?」
 澪と遥はきょとんとして顔を見合わせた。いきなりこんな突拍子もないことを言われて、驚かない人間などそうはいないだろう。普段はあまり感情を表に出さない遥でさえも、かなり困惑したような複雑な表情を見せている。
「それって演劇の話? それとも仮装パーティ?」
「いやいや、仮装などではなく本物の怪盗だよ」
 剛三は軽く笑いながら答えた。
「おまえたちは知らんだろうが、我が橘家が代々やってきたことなのだ」
「うそ……」
 唖然とした澪の口から小さな言葉がこぼれ落ちた。その反応を愉しむかのように、剛三はニコニコとしながら、執務机の上で両手を組み合わせて説明を続ける。
「盗むといっても利益を得るためではないぞ。我々がターゲットとするのは、そこに籠められている思いを踏みにじられた不遇の絵画のみ。つまりは絵の尊厳を守るということだな」
「もしかして、怪盗ファントム?」
 遥は顎に手を添え、ぽつりと言う。
 それを聞いた剛三は、満面の笑みを浮かべて、誇らしげに大きく頷いた。
「よくわかったな。さすがは遥」
「何、そのファントムって?」
 澪は瞬きをしながら、隣の遥に振り向いて尋ねる。
「もう20年以上前かな。絵画専門の怪盗がいたんだよ。鮮やかな身のこなしで、幻影のように消えたり現れたりすることから、ファントムって名前がつけられたらしいね」
「おまえたちはその怪盗ファントムの二代目というわけだな」
 遥の端的な説明のあとに、剛三は嬉々として言い添えた。
 しかし、澪の理解は追いつかない。
「私たちが二代目……? 初代って誰だったんですか?」
「先ほど言っただろう、橘家が代々やっておるのだと」
「……もしかして、お父さま?」
 これまでの話の流れからすると、また剛三の口ぶりからしても、その答え以外には考えられない。それでも澪は半信半疑だった。父親はどちらかといえばインドア派であり、鮮やかな身のこなしで夜を駆け巡る怪盗とは、あまりにもイメージがかけ離れている。想像がつかないのだ。
 しかし、剛三は当然のように頷いて話を続ける。
「さよう、ファントムと名付けたのはどこぞのマスコミだったが、大地がえらく気に入ったようで、そのうち自らファントムと名乗って大々的に予告状を出すようになったのだ。ワシはそこまでするつもりはなかったのだがな」
 そのときの状況が目に浮かぶようで、澪は妙に納得してしまい、思わず小さく肩を竦めて苦笑した。確かに父親には調子に乗りやすいところがある。大人になった今でもそうなのだから、若かりし頃であればなおのことだろう。
「美咲とも、怪盗ファントムの活動が縁で出会ったのだぞ」
「そういえば、お母さまの亡くなった父親は画家って……」
「そう、その相沢修平が亡くなったとき、未発表の遺作である娘の肖像画を、悪質な美術ブローカーが騙し取ってな。それをワシらが取り返してやったのだ。おまえたちも知っているだろう、大階段に飾ってあるあの絵だよ」
 剛三の言う大階段の絵は、この家の人間ならば誰しも日常的に目にしているものである。描かれているのが美咲の少女時代であることも周知の事実だった。しかし、そのような劇的な逸話があったことは、少なくとも澪はこれまで知らなかった。
「ファントム、つまり大地が、美咲のところへその絵を返しに行ったのが、二人の最初の出会いでな。月下の淡い光に包まれながらベランダに降り立った大地は、驚く美咲に絵を手渡すと、黒のマントを大きく翻し夜空に舞い戻っていったのだ。その後、ファントムを追ってきた刑事が美咲に言った。ヤツはとんでもないものを盗んでいきました、それはあなたの心です!」
 剛三はこぶしをグッと握りしめ、前のめりになって熱く語った。しかし澪は、どこかで耳にしたようなその話を聞きながら、醒めた目を向けて胡散臭そうに言う。
「おじいさま、話を作ってません?」
「だいたい合っとるわい」
 剛三はぶっきらぼうに答える。
 その後ろで、秘書の悠人は声を立てず控えめに笑っていた。そこからは、何もかも知っているかのような、それを楽しんでいるかのような、そんな余裕が感じられる。
「師匠はご存知だったのですか?」
「僕はファントムの影武者だよ」
「えっ?!」
 突然なされた衝撃の告白に、澪は素っ頓狂な声を上げた。
 だが、言われてみれば、十分に考えられる話である。大地と悠人は同じ年齢で、背格好もよく似ており、そして、何より悠人は様々な武術を修得している。ファントムの影武者にこれほどの適任はいないだろう。
 隣で、遥は呆れたように溜息をついた。
「代々ってことは、じいさんもやってたんだね」
「無論だ。もっともワシは怪盗ではなくただの泥棒だったがな。そもそもワシが始めたことなのだよ。おまえたちは怪盗ファントムとしては二代目だが、絵画泥棒としては三代目ということになるな」
 結局のところ、すべては剛三の独断だったようだ。ほとんど趣味といってもいいかもしれない。強引ではあるものの行動力と決断力があるというのが世間での評判だが、ありすぎるのも困りものである。
「それくらいじゃ、代々っていうほどでもないと思うけど」
「これから脈々と受け継がれていく予定になっておる。おまえたちが歴史と伝統を作っていくのだよ。どうだ、わくわくするだろう?」
 冷ややかな遥とは対照的に、剛三は子供のように浮かれていた。
「おまえたちの任期は20歳までの3年。獲物の選定や作戦の立案はこちらで行う。おまえたちは指示に従って作戦を遂行するのが役目だ。良いな?」
「いいわけありません! おじいさま、窃盗は犯罪です!!」
 危うく流されそうになっていた澪は、ハッと身を乗り出して力説する。いくら祖父の命令とはいえ、犯罪に手を染めるわけにはいかない。祖父の間違った考えを改めさせなければならない。
「相変わらず澪は堅いのう」
「いくら不遇の絵画を救い出すためといっても、窃盗が許されるはずはありません。正当な手段で救い出すべきだわ。おじいさまなら、そのくらいのことが出来ないはずは……」
「面白そうじゃん、僕はやるよ」
 必死になって説得する澪をよそに、遥はさらりと軽く了承した。
「はっ、遥?!」
「遥ならそう言ってくれると信じておったぞ」
 剛三はほくほく顔でそう言いながら、何度も満足げに頷いていた。
 澪は慌ててふたりの間に割って入る。
「遥、落ち着いてよく考えて。怪盗なんてやったら犯罪者になっちゃうのよ? 映画や漫画とは違うのよ? ヒーローでも正義の味方でもないんだから」
「わかってるよ。警察に通報する?」
 その突き放したような物言いに、一瞬、澪はたじろいで小さく息を呑んだ。
「違うの、そういうことじゃなくて」
「澪はいいよ、僕ひとりでやるから」
「遥だけに押しつけて知らん顔なんて、そんなこと出来ないよ……」
 消えゆくようにそう言うと、沈んだ顔で目を伏せてうつむいた。遥が何を考えているかわからず、泣きたいような気持ちになる。だが、ここで諦めるわけにはいかない。
「おじいさま、怪盗なんて馬鹿げたこと、本当にやめません?」
「遥ひとりでは何かと危険なのだがのう」
 剛三は、澪の言葉に耳を貸すどころか、とぼけた口調でそんなことを言う。そうやって澪の弱点をつくことで、ファントムに引き入れようとしていることは明らかだった。
「二人であれば使える様々なトリックも、一人では不可能だからな」
「怪盗ファントムをやめてしまえば、万事解決するじゃないですか」
 その声には露骨に苛立ちが滲んだ。
 剛三はわざとらしく大きく溜息をつき、遥に目を向ける。
「すまんな遥、聞き分けのない薄情な妹を持ったと諦めて、大変だろうが一人で頑張ってくれぬか。澪さえ協力してくれれば、遥の負担も減るのだがのう。いや、実に残念だ。澪はせめて遥の無事を祈っていてくれないか」
「わ、わかったわよ……私もやる……」
 不本意ながら、澪は追いつめられてしまい、そう答えるしかなくなっていた。せめてもの抵抗とばかりに、じとりと横目を向けて祖父を睨む。しかし、彼は少しも動じることなく、わははと豪快な笑い声を響かせた。
「よし、怪盗ファントム再始動じゃな!」
 剛三は執務机にバンと両手をついて勢いよく立ち上がる。そして、修羅場をかいくぐってきたことを窺わせるような凄みのある顔で、不敵にニッと白い歯を見せた。

…続きは「東京ラビリンス」でご覧ください。

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