瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

善悪、相違、ストレスなど

2019-07-29 08:26:21 | 随想
自分にとっての当たり前が他者において遂行されないと腹が立ちますわなあ。自分にとってはそうすることが当たり前だからそれが善。いや、そもそもそれが当たり前だから善という意識すらないんですけどね。当たり前のことをしてるだけ。

で、自分は当たり前のことをしている。他者はそうしない。ってぇ場合、そうしない他者は駄目である。と、まあ、否定することになる。結果的に自分は善で他者は悪という判断。その判断により他者に腹を立てる。悪はイカン、というわけ。

でもねえ、自分にとっての当たり前が他者にとっての当たり前と違うのは当然でしてね。人はそれぞれですから。

念のために断っておきますが、社会的な当たり前の話は別ですよ。社会的な当たり前、社会的なルールね。そうすることが当たり前なことは法律になってますから、その当たり前が遂行されない場合は処罰の対象。
人はそれぞれ、なんて言ってたら社会秩序はめちゃくちゃですからなあ。

ここで言ってるのは個人レベルの話。日常の些細なことです。整理整頓をするしないとか、時間を守る守らないとか、気を遣う遣わないとかね。
整理整頓を当たり前にしてる人はそれを善と思ってやってるわけでもない。けれど他者が物を散らかせば、なんで整理整頓しないんだってぇ腹を立てる。散らかした他者を前にしたとたん、散らかした他者が悪になり、結果、自分は善となる。
そういうレベルの話です。

でね、その判断は自分の当たり前が基準なわけです。自分を基準にして他者を裁くのは傲慢ですわな。自分の基準の押し付けです。

人はそれぞれ。その人として当然のことをしてるだけ。善いも悪いもありません。善いだの悪いだの判断してるのは自分。
判断する必要なんてありません。ただ自分と他者は違うってぇだけです。違うのは当然。当たり前のことが展開されてるだけです。

ま、その違いがストレスだったりもしますがね。
違うゆえに相性がよく、一緒にいて心地いい場合もあれば、違うゆえにストレスで一緒にいるのが苦痛ってぇ場合もある。

自分を基準にした善悪なんぞどうでもいいですが、その違いが苦痛になるのはたまらない。避けられる苦痛なら避けたいですなあ。
個人的な付き合いなら関係を絶(た)つのも簡単ですが社会的な付き合いはなかなかそうもいきません。

かくて社会的な人間関係はストレスの元凶であるわけです。社会的ってぇのはある種の強制ですからな。逃れようがない。逃れたければ社会的なことから降りるしかありませんわな。

どういう生き方だって人は出来る。
あとは選択です。
引き受けるか、拒絶するか。
どちらを選ぶにしても覚悟が必要なことには変わりはありませんけどね。



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