瓢簞舟の「ちょっと頭に浮かぶ」

こちらでは小説をhttps://kakuyomu.jp/works/16816700427846884378

今日の言葉 3

2015-06-01 13:50:21 | 随想
「(前略)――おい天気が少々剣呑になって来たぜ」
「なに、大丈夫だ。天祐があるんだから」
「どこに」
「どこにでもあるさ。意思のある所には天祐がごろごろしているものだ」

夏目漱石「二百十日」



あたしも圭さんに倣って天祐派である。
で、ラストシーン。



「(前略)――あの下女は単純で気に入ったんだもの。華族や金持ちより尊敬すべき資格がある」
「そら出た。華族や金持ちの出ない日はないね」
「いや、日に何遍云っても云い足りないくらい、毒々しくってずうずうしい者だよ」
「君がかい」
「なあに、華族や金持ちがさ」
「そうかな」
「例えば今日わるい事をするぜ。それが成功しない」
「成功しないのは当り前だ」
「すると、同じようなわるい事を明日(あした)やる。それでも成功しない。すると、明後日(あさって)になって、また同じ事をやる。成功するまでは毎日毎日同じ事をやる。三百六十五日でも七百五十日でも、わるい事を同じように重ねて行く。重ねてさえ行けば、わるい事が、ひっくり返って、いい事になると思ってる。言語道断だ」
「言語道断だ」
「そんなものを成功させたら、社会はめちゃくちゃだ。おいそうだろう」
「社会はめちゃくちゃだ」
「我々が世の中に生活している第一の目的は、こう云う文明の怪獣を打ち殺して、金も力もない、平民に幾分でも安慰を与えるのにあるだろう」
「ある。うん。あるよ」
「あると思うなら、僕といっしょにやれ」
「うん。やる」
「きっとやるだろうね。いいか」
「きっとやる」


今の時代、金持ちはいても華族はいない。しかし形を変えて「文明の怪獣」は存在している。新しく生まれもする。そんなものは打ち殺さなければいけない。
「文明の怪獣」の産みの親は考え方である。漱石の時代から変わらぬ考え方が「文明の怪獣」の存在を許しているのである。いい加減、愚かしい考え方から脱するがよかろう。
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