まちみちふうけい

四角い枠に切り取られた風景は一瞬のもの、そんな一瞬を追い求めてこれからも相棒と走り続ける・・・

No.1000 上ツ道、天理市内・・・懐かしい風景に思うこと

2018-10-05 09:37:35 | みち
おはようございます。














前回に引き続いてこんな話をするのは申し訳ないのですが、あの6月の地震のあった日、奈良市は震度4だったのですが多分自分(一人称)が今まで生きてきた中で一番揺れたんじゃないかなと言う気がしました、めっさ怖かったもん。関西はこの日は朝から雨で6月と言っても結構涼しかった、地震があったのが午前8時ちょっと前、ちょうど朝ドラが始まる直前に揺れが始まりテレビでは緊急地震速報が流れ鈴愛チャンは出てこずニュース速報となった。自分(一人称)はこの日、所用で天理市役所に行く予定でちょうどその準備をしていた頃、雨は止んでいたのでそろそろ出ようと思った矢先のことだったがこの揺れには正直ビビった、最初奈良県で震度5弱と表示されていたがこれより大きな地震が北海道や熊本であったのかと思うと日本はこの先どうなってしまうのかと考えてしまった・・・。さて、恐る恐ると言う感じで天理の市役所まで走ったわけですが、その帰りは久しぶりに上ツ道を走りました、上ツ道と行っても自分(一人称)が子供の頃に住んでいた見慣れた風景、地震の後と言ってもそこは何もなかったような静かな雰囲気のままの町並だった。この日はカメラを持ってなかったので後日、改めて懐かしい風景を撮ってみようと思い走りました、その時の写真が今回の本題です、自分(一人称)にとっては懐かしい風景、前にもここで紹介したことがある風景ばかりですが改めてお付き合いよろしくお願いいたします。
と言うことでまずは天理駅周辺の写真から、写真1枚目、2枚目にある天理駅より上ツ道を南に行った辺りを昔の人は丹波市と言う、市場があったからそう言う地名が残っていると思うがその名残は写真2枚目にある木造のアーケード風の建物から窺える。上ツ道はジグザグと町中を進んで天理駅の近くへ、JRでは奈良駅が高架化されるまでは奈良県内で唯一の高架駅だったが、小学生の頃に買った鉄道の駅の本では奈良県内で一番立派な駅だと書かれていて地元の者として誇らしい気分でもあった。













子供の頃は天理駅周辺が自分(一人称)にとっては世界の果てと言ってもいい所だった、スーパーいそかわや天理本通りのアーケード商店街に来ればなんでも買えると思っていた、でもそれ以上先へ行ってしまうと校区から外れることもあり何か行ってはいけないと言う気持ちがあった。天理駅まではバスに乗っても電車で一駅だけ乗っても、時間をかけて自転車で走ってもちょっとした冒険旅だったが、それも小学生でも高学年になると自転車で簡単に行ける世界と変わっていった。その時に走っていた道が上の写真にある道、昔は何気なく旧街道と言って走り回していたその道が上ツ道、伊勢へと向かうために利用されていた道だったと知ったのはそれから30年以上経ってのことだった。
天理駅から北へと上ツ道を進んで行くと自分(一人称)が通っていた中学校の校区へと入ってくるが、写真5枚目、奥の方に名阪が見える所に「人権センター」と書かれた看板が掛かった町並へと差し掛かって来る。中学生の頃、金曜日の放課後に勉強会と言うのがあって、自分(一人称)は参加したことがなかったが「を考える」と言うことでこの辺りに住んでいる人たちが学校に来ていた、「道徳」の授業の時間ではその話が出たこともあったがその内容など詳しいことはほとんど分からなかった、それを知るようになったのはもっと先、大人になってからのことだった。自分(一人称)はよく各地の旧街道を走っては昔の雰囲気が漂う町並は風情があっていいと書いているが、そんな町並に住んでいる人たちがに苦しんでいる実情など知る由もない、表面から見た風景しか書くことができないのでそれをみて苦々しい思いをしている人もいるのだと思います、でも自分(一人称)には悪意も他意もありません、その辺りは許してください・・・。












JR櫟本駅の木造駅舎はテレビでもよく紹介されたりしている、昔は通勤で毎日のように利用していたこともあってその頃は何とも思わなかったが、今となってはずっと残してほしい、誇りに思いたい駅である。病気になったらいつも行っていた診療所も、その頃は足で踏んづけたり乗っかったりしていた道標が立つ交差点も、なけなしのお小遣いで文具や小学生の月刊誌を買いに行った文房具店、お城のプラモデルを買いに行った小さなおもちゃ屋もみんな懐かしい思い出である。もう人生の半分以上を奈良市で過ごしたことになるが、改めてじっくりとこの道を走ってみると、今は変わってしまった風景にもそんな懐かしい記憶が重なってくる、上の写真にある壁が傾いた家、当時は斬新な形でお洒落な家だと近所では評判だったが今では蔦が絡まっている、それだけ時間が経ってしまったと言うことか、町の小さな診療所だった高井病院がまあ何と!見違えるくらいに立派な病院になってしまっている。自分(一人称)が住んでいた町は今でもほとんど昔のままの姿を残している、この町並が今後も残されていくのかどうか・・・、上ツ道がいろいろなところで伊勢へと向かう旅人が利用していた旧街道として紹介されたことによって残されていくのかも知れない、しかし新しいものに造り替えたい人たち・・・それを利用価値にしてお金に変えたいと思っている人たちには苦々しく思われてしまうかも知れない。もう地元民ではないからどうこうとは言えないが自分(一人称)としては・・・やっぱり残していってほしいよな~懐古主義なので、と言うことで今回も時間となったようです、次回も気楽にお越しくださいませ。          まちみち