Happyday of LUCKY

日々の気付きと感謝を忘れないように綴るページ

中古カメラの値段

2011年01月24日 | Camera


「M8があればなんでも撮れる」といった舌の根も乾かぬうちに、新しいカメラを買ってしまった。
ヤフオクに出品していたカメラが予想より高値で売れたからだ。
もちろん高値といってもそのカメラを買った値段より高く売れるわけではない。
わたしの経験からいうと、新品でも中古でもだいたい買い値の半分くらいで売れたら万々歳だ。
たとえば10万円で買ったカメラは、その程度にもよるが、5万円で売れたら御の字で、ふつうカメラ屋さんにもっていくと3万円にもならないだろう。
カメラ屋さんは3万円で客から仕入れたカメラを6万円で売る。
2倍の値段で売るのかとおどろくかもしれないが、カメラが売れなければ3万円の赤字なのだから、そのリスクを負ってると考えれば高くない。
それが商売ってもんだ。
新品のカメラの場合も同様で、20万円で買ったものは10万円が上限だと思う。
この場合、定価の半値ではなく、自分が買った値段の半値だと考えること。
このようにカメラというものは写真好きの人たちのあいだでまわり巡っていく。



さて、新しく買ったカメラとは?
 キヤノンEOS 40D
ボディのみだから、このままでは撮影できない。
レンズの代わりにニコンF用のマウントアダプターを買う。
これがあればニコンのレンズがすべて使えるのみならず、マウント改造したライカRレンズも全部OKだ。
我ながら賢明な選択だと思う。

こうなってくると、ライカマクロエルマリートR100ミリを付けて、ニコンD300とEOS 40Dとの対決なんてこともできるぞ。
これはちょっとおもしろそうじゃない?
ちなみに一番上のカットはエルマリートR28ミリを付けての試写(ISO400、絞りF5.6、シャッタースピード1/60秒)。



[きょうの夕食]
・鶏ササミとキュウリのサラダ
・かぶらとロースハムのミルクシチュー
・豚ロース肉と白菜の粒マスタード炒め

M8があればなんでも撮れる

2011年01月23日 | Camera


ちょっとまえから居間の戸のすべりが悪いと思ったら、車輪が壊れていることを発見。
プラスチック製は割れるのでステンレス製のものを買ってきて交換する。
それからヤフオクに出品しているカメラを梱包するために、段ボールを切って適当な大きさの箱をつくる。
クッション材を入れ、元箱を入れ、テープを貼る。

これで手元にあるライカはM8だけとなった。
なんだかすっきりした気分。
不思議なことにM8を手に入れてからライカに対する興味がなくなってしまった。
M用レンズ4本、R用レンズ4本あれば、なんでも撮れるので、もうボディはM8だけでいいと思う。
宝くじにでも当たればM9もほしくなるかもしれないが、残念ながら宝くじを買ったことがないのでそれは実現しないだろう。



午後から去年末にチェジュ島で撮った写真をようやくプリントする。
1ヶ月寝かしておくと撮影したときの高揚感がなくなり、冷静な目で選べる。
RAW現像で暗めに現像しても、シャドー部分のディティールがしっかり残っている。
いわゆるシャドーの粘りがすごい。
今までのデジカメの常識ではちょっと暗めに撮って、フォトショでトーンカーブを持ちあげるというのがふつうだったけど、M8の場合は適正露出で撮っておいて暗めに現像するのがいいようだ。
こんなことが可能なのは再現域の広いレンズの性能に負うところが大きいと思う。
国産のハイコントラストなレンズではシャドーがつぶれてしまうかもしれない。
もっとも最近のデジカメはカメラ内で再現域を広げてしまうので(ニコンではアクティブD-ライティング、キヤノンならオートライティングオプティマイザ)、レンズの性能がそこそこでもきれいに写ってしまうが。



[きょうの夕食]
・小アジとタコのトマト煮
・豚キムチ炒め
・ツナと白菜のそうめんサラダ
・チキンのオーブン焼き(息子用)

パン粉とにんにく1個のみじん切りと塩こしょうをオリーブオイルでよく混ぜ合わす。
それを塩こしょうした鶏もも肉を覆うようにのせ、オーブンで15分焼く。
めちゃくちゃ簡単でおいしい。

「ノルウェイの森」にリアリティを感じるか

2011年01月22日 | Life


きのう撮ったY保育園のファイル整理をしてCD-Rに焼く。
それを持ってロードワークに出る。
途中、ヤマト運輸の集配所に寄って速達メールで送る。
そのまま30分で5キロ走る。

午後から久しぶりに映画を観にいく。
上映中で一番おもしろそうな「ノルウェイの森」に入る。
原作を読んでいないので、予備知識なしにこの映画を観たのだが期待はずれだった。
この話の時代背景は安保闘争のころで、今から40年以上まえだ。
わたしの学生時代より一回りほど世代が上になる。
このころの学生はこうだったのかと想像してみるものの、自分の若いころの気持ちや行動と重なる部分がほとんどなくて、登場する若者に感情移入できない。
つまりリアリティを感じないのである。
村上春樹の「ノルウェイの森」が全世界で読まれ、受け入れられているということが不思議に感じる。
これはやはり原作を読んでみないとわからないようだ。



[きょうの夕食]
・子持ちカレイと椎茸のイタリアン風水煮
・ソーセージとジャガイモのソテー
・キャベツとごぼうのサラダ
・豚肉のピカタ(息子用)

子持ちカレイは軽く塩をふって臭みを抜く。
オリーブオイルでにんにくをゆっくり炒める。
香りが出たらカレイと椎茸を入れ、表面を焼く。
裏返して水1.5カップと塩少々を入れてふたをし、弱火で約10分蒸し煮する。
塩こしょうで味を調えてできあがり。

内倉真一郎はもっている

2011年01月16日 | Photography


心斎橋アセンスで内倉真一郎氏の巨大ポートレイト写真を見る。
ああ、ライティングは光が回ってないし、プリントも黒がつぶれて下手だ。
おまけにパネルが歪んでいて平面が出ていないのもある。
学生時代からあいかわらず雑な仕事である。

だが写真の内容は、いっしょに展示されているほかの人の作品がかすんで見えるほど、際立っていた。
ここに写っている人たちのキモチ悪さやブキミさはなんなんだ。
ランドセルを背負った子どもがこんなにも妖しいとは。
タバコを手にした和服姿の男性はなにか鬼気迫るものが感じられる。こわい

3年ほどまえニコンサロンで彼の写真を見たときも同質のこわさを感じた。
そのときの作品はポートレイトではなく東京のスナップだったのだが、非日常的なブキミさが写真から発散していた。
つまり彼の眼には人間も街もこのように見えている、あるいはこのような世界観でものを見ているということだ。

よくポートレイトは「その人の個性や人となりを引き出すように撮る」などというが、内倉氏の作品はまったく逆だ。
すなわち彼は自分のイメージのなかへその人物を押しこむように撮っている。
きょうのトークイベントでいみじくも彼はこんなことを言った。
「オレは写真のなかに人間を創りだす神である」
不遜な物言いに聞こえるかもしれないが、わたしはそうは思わない。
写真表現というものはじつは自分のイメージが大切なのだ。
それをもっているかどうかで、被写体を撮るのか撮らされるのかが分かれてしまう。
つまらない写真はカメラマンのもつイメージが貧困なものである場合が多い。

文楽はヤバイ

2011年01月15日 | Life



国立文楽劇場へ「初春文楽」を観にいく。
人形浄瑠璃など観るのは何年ぶりか。
記憶がないほど昔のことなので、ひょっとしたら子供のころNHKでやっていた「新八犬伝」以来かもしれない。
いや、あれは人形浄瑠璃ではなかったか。

そもそもわたしは古典文学や古典芸能に疎い。
学生時代にもう少しまじめに勉強しておけば、もっといろんなものを楽しめたのだろうが、今ごろ言ってもあとの祭りだ。
きょうはちょっとでも楽しめたらよしとしよう。

本日の演目は
 1.ひばり山姫捨松(ひばりやまひめすてのまつ)
 2.傾城恋飛脚(けいせいこいびきゃく)
 3.小鍛冶(こかじ)

最近の歌舞伎や文楽などの劇場にはワイヤレスによる音声ガイドの有料サービスがある。
小型ラジオのような受信機を借りて舞台を観ていると、大夫の語りの切れ間にうまいタイミングでイヤフォンから解説が流れてくる。
しかも舞台の上の方にテロップが出るので大夫の語るそれぞれの台詞がよくわかる。
ちょうど外国のニュースの同時通訳のような感じだ。
おかげで古典の知識のないわたしでも物語の内容がよく理解できて、人形そのものの表現をしっかり見ることができた。
また、雪が舞うシーンなどでは舞台全体の美しさを堪能することもでき、古典芸能のすばらしさの一端を垣間見た気がする。
こんなにおもしろいものを今まで知らずにいたなんて、じつにもったいないことだ。
また近いうちに観にいこうと思う。