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「加藤 明」〈ペルー〉

2006-04-05 18:00:21 | 良い話(南米)
パート2・75 名前: 地球市民@ ◆sj4EGwIQ 投稿日: 02/03/06 18:03 ID:7/rEuzDo

「加藤 明」と言う名前を聞いて、
「ああ、あの有名な加藤さん」と思い出す人は、余程のバレー通か、
新日鐵ファンということになってきたのではないでしょうか。
慶應義塾大学を昭和30年に卒業して、当時の八幡製鐵に入社、
前衛のレフト(当時は9人制)として大活躍し、
その天才的なバレーボールセンスは抜群であったと語り継がれています。

ちょうど、6人制へ日本のバレーボール界が、大転換を迫られていたときで、
6人制でも第4回世界選手権大会(昭和35年)の日本代表に選ばれるなど、
輝かしい戦歴の持主であります。しかし、「加藤 明」さんの名前は、
昭和35年にバレーボール部を引退し、指導者の道を歩み始めてからの
活躍において、その名を永遠に残すことになったのであります。

2部に低迷していた母校、慶応のバレー部の監督を引き受け、
1部に復帰させ、昭和39年のインカレでは強豪を次々破って
優勝に導くなど、指導者として非凡な才能を見せた「加藤 明」氏は、
南米ペルーの女子ナショナルチームの、監督を委されたのであります。

現役時代からの抜群のバレーセンスとバレーボールに掛ける情熱と
誰にも慕われる素晴らしい人柄は、全くのバレーボールの後進国であった
ペルーチームを、あっと言う間に国際的なレベルの素晴らしいチームに
作り上げて行ったのでした。
「加藤 明」氏の功績の大きさは、ペルー政府のオフィシャル(叙勲)の
栄に輝いたことでも判りますが、広く国民からも慕われていたことは、
ペルーを訪れた多くの日本人旅行者が「カトウを知っているか?」と
聞かれたというエピソードからも、推し量ることが出来ます。

残念ながら、昭和57年(1982年)3月20日ペルー・リマ市内の病院で、
49才という若さで亡くなられました。
鎌倉の材木座霊園に「惜別の碑」があり、次のように書かれています。
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2 コメント

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Unknown (Unknown)
2010-10-10 22:03:39
なんて書いてるか気になるーーーー!

加藤明 ググッてみよ。。。。でるかな??
Unknown (Unknown)
2010-10-10 22:07:08
わかりませんでした。。。

でも。ウィキペディアにいいこと書いてました。
以下引用
>1965年、松平康隆を通じてペルーから監督の依頼が来てこれを引き受ける。1967年女子世界選手権、ペルーの監督として出場する。結果は出場国中最下位であったが、翌年の1968年メキシコ五輪では4位入賞を果たした。
1982年、ウイルス性肝炎を発病しリマ市内の病院で死去。享年49。翌日のペルーの新聞では、『ペルーは泣いている。』、『ペルー人といってもいい日本人。』などの大見出しをつけて加藤の死が報じられた。
加藤の死から半年後にペルーで開催された1982年女子世界選手権では、第2次ラウンドで日本代表を破る快挙を成し遂げ、準優勝に輝いた。
リマには加藤の記念碑が建てられ、名前を冠した「アキラ・カトウ小・中学校」が設立されている。

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