小学3年生のとき、父がセントバーナードの仔犬を買ってきた。
生後1ヶ月くらいのメス。名前は「リブ」。父が名付けた。
「ウーマン・リブ」ムーブメントの機運が、アメリカから日本にも波及してきた頃である。
「力強く生きる女性という意味をこめて、リブ。大型犬のメスにはピッタリの名前だろう」と、父が威張っていたのをはっきりと覚えている。
父は、とにかく大きいものが好きだった。中国で育ったせいもあったのだろう。日本の片田舎で育った母親とは多くの面で価値観が違い、しばしば対立していた(だいたいは父親が言い負かされていたように思う)。
酒が入ると、もの心ついたか、つかないかくらいの私をつかまえて「日本は狭い。世界に行きなさい」とよく言っていた。職場の同僚たちを自宅に招いて酒を呑み、同僚たちが帰宅した後に母親に言い負かされたときに多かった気がする。
◇
「リブ」という名前には、ひそかに母親に対するささやか反抗の意思も込めたのかもしれない。
ただし、父は犬に名前を付けるだけなのに、時間をかけすぎてしまった。命名までに2~3日を要してしまった。子どもたちは、新しい遊び相手をそんなに長期間、名無し状態にはしておかない。
セントバーナードが我が家に来た次の日、近所の子どもたちが我が家に集結し、一番の年長だった6年生が勝手に、かつ瞬時に、命名してしまっていた。でかいから「ボス」。メスかオスかなどは全く考慮に入れていなかった。
2~3日前から「ボス」と呼んでいたのだから、「リブ」という名前は子どもたちには浸透しなかった。父がその場にいるときだけ、みんなは違和感を抑えながら仕方なく「リブ」と呼んでいた。
だいたい、「ウーマン・リブ」などという言葉を理解している者などいなかっただろうし。
◇
仔犬といっても、でかい。近所にシェパードの成犬がいたが、すぐに同じくらいの大きさになった。
庭はそこそこの広さはあったものの、住宅密集地。その上、両親共働きで日中は人間が不在の家庭だった。
おとなしい性質の犬だが、それは身内なればこそ知り得ること。一般の人にとっては、大型の獣だ。怖かったに違いない。
夏は体毛が抜けて近隣に飛んだ。近所迷惑だったろう。
◇
我が家の当時の家族構成は両親と小学5年の姉と3年の私。帰宅が一番早いのは私だ。
下校時、家から50メートルほどになると、家の方向からボスがほえるのが聞こえた。
靴音なのか、臭いなのか、私の接近を感知し、「お帰り。早く遊ぼう」と呼んでいるのだ。セントバーナード独特の丸っこい重低音。喜びを内包して、重低音だが明るい。
庭に入ると、私に向かってダッシュして、抱きついてきた。小学3年生の私の体では受け止めきれず、押し倒されて顔をベロベロとなめられた。
両親が日中不在の家なので、隣家の人たちが我が家の様子をしばしば見てくれていた。隣のおばさんが、私が犬に跳びかかられたと思って大騒ぎになったこともあった。
散歩は私の仕事だった。引きずられて大変だったが、しばらくして成犬の体になってくると、私を背中に乗せてくれるときもあった。
父親が大きな犬小屋を作ってくれて、その中で一緒に眠った夜もあった。
心が通い合っている、と実感した。掛け値なしに、大好きだった。
◇
しかし、飼っていた期間は1年半ほど。家庭の事情で手放すことになった。「悲しみ」というものを生まれて初めて感じたのは、この犬との別れだったと思う。
◇
自慢になってしまうが、ボスとの別れを書いた作文がなんだかの賞をもらって、給食時間の校内放送で朗読したときのこと。
放送室という密室の閉塞感を嫌悪しながらも、なんとか朗読をこなし、疲れて果てて自分のクラスに帰ると、みんなが泣き顔になっていた。自分の感情がクラスのみんなに伝わったことに、喜びを感じた。
ボスは、当時の私にとって、本当に大切な存在であった。
◇
なんてことを、先日、呑み会を終えて、思い出した。
不定期の異動でかつての同僚が同じ職場にやってきた。このところ、自粛ムードに食傷気味で酒宴に飢えていた。異動当日の夜に、ささやかな歓迎会を開いた。
職場でも、家庭でも、我慢ができるようになった、てな話。それを自嘲しつつ、反面、誇りつつ。
アパートに帰って万年床に体を放り投げ、目を閉じた。
独身時代の酒宴より、随分、勢いが落ちた。命を削る仕事もあったし、心を圧し殺すときもあった。多くのことを許せるようになった。子どもに教えられたことも、かなりあるなぁ。
そんなことが茫漠とした頭の中にめぐっていたら、唐突に、「リブ」の名前の由来を威張って語る父親の姿が浮かんだ。その絵に、週末に郡山の自宅に帰って、酒を呑みすぎて女房に言い負かされている今の自分の姿が重なった。
◇
父は、子どもたちが「ボス」と呼んでいたのを知らなかったわけはないだろう。でも、子どもたちの決めた名前を許していた。
◇
「オレもオヤジも、男であるだけじゃない。夫であり、父でもあるのだ。女房や子どもをイチイチ言い負かしていられるか!」
負け惜しみもたっぷりだが、無理やりにそう思うことにした。
おやすみ、ボス、みんな。
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