アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

過保護と過干渉は自己満足。愛情ではないのである

2007-01-23 | Weblog
 胸が痛む。いや、気が重いという程度だろうか。

 別れ際の、曇りがちな息子の表情がどうも頭から離れない。


 二十日朝、息子を保育所に送り届けた。妻が所用で早朝から出かけたためである。ごはんを食べさせ、歯を磨き、おしめを換えて、車で家を出発したのが午前七時四十五分。
 二人きりで全部やるのは、息子が生まれて2年11ヶ月で初めてのことである。すべてが思い通りにいかない。ずっと妻に任せきりだったと、あらためて痛感した。


 三人で一緒に食べているときは、いつも息子と妻が遅れて、『飯を食うのにいつまでかかっているんだ』と思っていた。しかし、息子と一対一でやってみて普段の妻の苦労が分かった。すんなり食べてくれない。”遊び食い”だ。歯を磨くのだって一苦労。
 食事と歯磨きと、大人ならば三十分もあれば終えられるが、三歳未満のやんちゃ盛りと一緒ではそんな算段は立たない。結局、一時間以上もかかってしまった。

 車には素直に乗ってくれた。

 保育所送りでさえも初めてである。余裕をもって少し早めに園に入ったが、まず靴をどこに置けばいいかが分からない。続いて、妻に言われていた、起床時刻や朝食の時刻を書き込む用紙が見当たらない。息子を放しておくとどこに行くか分からないので抱っこする。そうなると、探し物さえままならない。

 と、抱っこして気付いた。
 ズボンのお尻が濡れている。おしっこが溢れているのだ。家を出る前にすべきことなのに忘れてしまった。

 と、さらに気付く。
 おしりが濡れているのに抱っこして、さらに息子のおしりを不快にしてしまっているのだ。

 さっきからの落ち着きのなさは、お尻の不快感が原因である。息子はさっきからおむつを替えてくれと行動で示していたのだ。

 かなり頼りなく映っているのだろう。飯も、歯磨きも、保育園に着いてからも、お母さんと違って手際が悪い。緊張しているんだろうなあ、と思う。
 正直のところ、親のくせに何もできない。会社では即応能力はある方だと自負している。トラブル処理などは、自分に任せておけば安心だという自信がある。しかし、家庭では何もできていない。

 幸い、園には息子用のボックスがあり、そこに妻が用意していた替えおむつとズボンがあった。

 息子のご機嫌を取りながらおむつを交換する。まだ館内は凛とした朝の空気が冷たい。しかし、息子は不慣れで困っている親父に合わせてくれている。暴れもせずにおむつを換えさせてくれた。すまん。


 お前が生まれる前は、病院で沐浴とおむつは勉強してマスターしたはずだが、このごろはいつも呑んだくれて、おむつの手際も忘れてしまっていた。お前の誕生前後は、妻のことももっともっと大切にしていたはずだ。



 そうこうしているうちに、ほかの子も園に入ってきて、先生も集まってきた。息子を先生に託して、さあ出かけようとしたが、案の定、息子は『お父さんといる』と言い張る。

 少しうれしい。しかし、親は子を巣立たせるために育てるのである。生きていく力と心を身につけるためには、巣から追い出すくらいでなくてはいかん。保育園くらいで親と離れるのが困難ではいかんのだ。
 先生が『お父さんは大切なお仕事だから、みんなと遊ぼうね』と諭してくれる。しかし、なかなかおれの脚をつかんだまま離れない。どうしたものかと思案したが、まあ、しかし、先生はさすがプロである。おもちゃで気を引きながら、上手におれの脚から息子を引き剥がし、おれはその隙に部屋を出た。

 しかし、である。園の玄関を出ようとしたときに、頭の中を黒い影が過ぎった。『息子の油断を突いて離れたが、果たして息子の教育のために良かったのだろうか。これじゃあ《すぐ戻ってくるからね》と言って、子どもを置き去りにする、捨て子まがいじゃないか。いかん、息子がぐれちまう』。すぐ踵を返す。

 部屋を覗くと、案の定、息子は知らぬ間に父親がいなくなって、しかも周囲は大人も子どもも知らぬ者ばかり、さらに親と一緒でない時間は人生で初めて。相当に不安な顔で、半ば呆け顔をしている。

 すぐに抱きしめなくては! 

 そう思うが速いか、おれの手が引き戸に掛かった。息子の名前を呼ぼうとした。


 その刹那である。

 不審な男の侵入を、部屋の中の先生は母性で俊敏に察知した。

 アイコンタクト。「来るな!」

 おれは、なんとなく先生の目の力に押されてその場を後にした。

 それから先の時間、おれはこの項の冒頭で述べたような、胸が苦しい、体調さえ悪いような、重苦しく曖昧な不快感に支配されていたのである。

 結局のところ、どうにも心配でたまらず、その2時間ほど後に再び保育所を訪ねた。息子は元気に遊んでおり、元気にほかの子どもとおもちゃの取り合いをしていた。そのときも、先生に同様のアイコンタクトをいただき、おれは窓越しに息子の様子を覗いて、少し安心して帰った。息子は生き生きと遊び、生き生きとけんかをしていた。

 おれなんかの心配なんてのは、まさに老婆の杞憂というやつだ。若者の成長には妨げにしかならない。

 過保護な親、過干渉の親は、子どもにとって最大級の不幸因子である。いつもそうなりたくないと思ってきた。が、実はおれもかなり危険であったのだ。戒めねば。

 過保護、過干渉は自己満足であって、愛情ではないのである。


 ちなみに、妻が言うには、保育園はお迎えこそが醍醐味だという。どんなに楽しく遊んでいても、子どもは親が迎えに行くと最上級の笑顔で親に向かって駆けてくるという。

 2月から妻が職場復帰し、おれと息子の「クレイマー、クレイマー」生活は本格化する。おれは、今からすでにお迎えに向けて燃えている。
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