MONOGATARI  by CAZZ

世紀末までの漫画、アニメ、音楽で育った女性向け
オリジナル小説です。 大人少女妄想童話

スパイラルツウ-5-4

2010-05-17 | オリジナル小説
涙を流しながら微笑む妊婦を二人の女が見下ろしていた。
時経系列にならべるには難しい、異次元での話である。
混沌の海を今度は二人の女が覗き込んでいるとしよう。
「どうやら。」黒い肌の女が笑った。「入ったようだね。」
より興味津々で見ていた、白い肌の女が口を尖らせた。
「フーン、こんなところに隠していたんだ。」
縁から落ちそうな程、身を乗り出すのを片方が押し戻した。
「よしな、シセリ。あんただって落ちたら、助けることはできないよ。なにせ、混沌だからね。肉のない私達じゃどうなるかわかったもんじゃない。万物が生み出される前の状態、イザナギとイザナミ・・・神々が大陸を生み出した坩堝ってわけさ。」
「ふーん、それって本当の話なの、皇女様?あたい、半分もわかんないんだけど。」
「さあね。」一見、あどけないシセリの問いにも皇女はそっけない。
「これってどこまで続いてるの?」
「それこそ、私にもわからない謎だ。おそらくは、本物の地獄ってとこだろうさね。私らの足下に開いている糞壷ってわけさ。この上を人間も魔族もなんにも知らずに歩いてるってわけだ。」黒皇女の薄い笑いには満足が現れている。
「こういう鍋、あたいにも作れるのかしらね。」
「開くのは思ったよりも簡単だと思うよ。問題は開く場所のはずだ。なるべく歪んだところに開けないとすぐに塞がっちまうんだよ。手間かけて熟成させた場所だからね、ここは。腹を空かせた入り口が開いたままってことだ。やろうと思えば、あんたにだってきっとできると思うよ。」
窓となる鍋を作る力と歪んだ人の情念が溢れる程あれば、と皇女は笑う。
皇女は今も空間から湧き出る、しょう気のような濁った霧を鍋に投げ入れた。
産まれてからこの方、一所にとどまることをしなかったシセリは肩を竦めた。
「あたい、やめとく。糠床みたいじゃん。手入れが大変なのはあたい、苦手。」
鍋から身を引くと、長く美しく伸びた両の手の爪をこすった。
「この後、いったいどうするつもりなの。」
ずるい上目遣いで皇女を伺った。
「あんたが。」皇女は楽し気に首を傾けた。「良い入れ物を用意してくれたからね。」
「なんで妊婦が必要なのかは教えてくれなかったけど。」
「ああ、あれは、胎児の中にしか入らないんだよ。そうやって、人の世に産まれて来るんだ。私が何度か確かめたからまちがいはない。」
皇女が顔を向けるともう既にシセリの様子は変わっていた。
「どう?あんたのいい人に似ている?」
皇女は不愉快そうに顔を顰めた。
「下品だね。それじゃ、似ても似つかないよ。」
「あんたって・・・」シセリは黒髪を口にくわえた。
「心底、その女に惚れてたんだ。」
皇女はフンと顔を背けると、鍋の底に目を戻した。
揺らめいていた光はもはやない。膨らんだ身体を庇うように丸まる浴衣姿の妊婦が見えるだけだ。その遥か下にもう一つの体が沈んでいる。
「ところでさ。あの男はなんなのさ。」シセリは漂う男をよく見ようとするかのように縁に肘をついて顎を乗せた。「ちょっとくたびれてるけど、いい男じゃない。」
「昔はもっと、いい男だったんだけどね。」黒皇女はため息を一つ、付いた。
「付きいる隙のない、好敵手だった、と言ってもいいさ。今じゃ、すっかり見る影もないけどね。所詮、人間なんて脆いものだね。しゃぶる肉もない抜け殻さ。」
「あんなとこに落としてさ、大丈夫なの?」
「人間は溶けやしないよ。試したんだ。死んだも同然だけど・・何年だって夢を見ているだろうよ。近くに愛した女の骸があるっていうのに気が付きもしないでね。」
「骸?どこにあるの? あたいにはあの女と男しか見えないよ。」
「魂の抜けた肉は役立たず容れ物なんだよ。あの遥か下に沈んじまったよ。」
黒皇女は魔族には珍しく思い出す目をする。記憶が甦る。
「おかしなことばかりでさ。死んだ女にはあの男がいた・・・子供もいたんだ。今は誰も覚えていないけどね・・・何がどうしてなのかは、私にも謎だよ。」
「へーぇ、誰も?」シセリはゆっくりと指につややかな髪を巻き付ける。
「あの男は覚えているみたいじゃない?」
「ああ、だけど、あいつの頭の中はどうしても覗けりゃしない。」皇女は舌打ちした。
「昔も今も。その点は一緒だ。今までどこに姿をくらましていたのかはしらないが。
そんなことより、変なのは記憶だ。一斉に関わった人間共の記憶が消えたんだ。」
皇女は悔しそうだった。「誰が、どういう手妻を使ったんだか。」
「ひょっとして・・・天使族?」シセリはゾッとして身震いをした。「あたい、あいつらはどうしても肌に合わないんだけど。」
「天使どもはそんなに暇じゃないよ。」皇女はあざける。
「そうね、基本、無関心だもんね。」
黒皇女はもうこの話はお終いと、手を打った。
「さあ、引き上げるよ。」シセリは尚も動かない。
「ねぇ、本当にそれってデモンバルグが欲しがるものなの?」
「さあね。」皇女は巨大な鉤を手にする。何で作られたものかはちょっとわからない。「ただ、あれは奴の宝物とすごく似ているだろう?。私は昔、あいつの魂にちょっかいを出したわけだ・・・そして、報復された・・・」
「マジで?」軽々と熊手のような鉤を皇女は差し上げる。
「よく生きていたね。」
「・・・私は混沌に焼かれた・・・」黒皇女は顔を歪めた。
「私が混沌を知ったのはそれからなのさ。」




本当に具合が悪くなってしまった香奈恵は『竹本』に戻ると、自室に引きこもってしまった。他の子供達も今日は学校を休みたいとうるさく主張したのであるが、綾子とガンタには受け入れられることはなかった。
ただでさえ、旅館は朝から人の出入りが激しくなっている。消防団や山狩りの応援の警官も到着し始め、人が錯綜し出入りが激しい。
残された関係者の飯田美咲もいる。香奈恵の父親,鈴木誠二も彼の教え子の学生達と共に今にも現われそうだ。よって子供達にうろうろされるのは、大人達にとっては好ましくないと言う結論がなされた。
3人はガンタによって小学校へと送り届けられた。
旅館の送迎用の小型マイクロバスの中で、ユリと渡、トラから香奈恵の話をガンタは道々聞かされる事となった。なぜか、運転席のすぐ後ろにジンも座っている。
「ひょっとして、ジンは香奈恵が外出していたのを知っていたんでしょ?」
渡が後部座席から身を乗り出した。ユリも背もたれに顎を乗せる。
「まあ、ね。」ジンが頭を巡らせるとすぐ近くに渡の顔があった。
「俺っちは、別に夜寝る必要ないからね。」
「悪魔だもんな。」ガンタがぼそっとつぶやく。
神興一郎と名乗る男は悪魔と呼ばれる、デモンバルグである。悪魔が昼間の疲れを取る為に、夜は睡眠を取らねばならないなどと言う話は聞いた事もない。
「おまえらの旅館は居心地いいから、ちょっとのんびりしちまったんだけどさ。」
ジンは言い訳する。その辺りは、ユリに先刻、怒られた通りだ。
かりそめの肉を纏っている時には肉自体を休ませる必要もあるのかもしれなかった。
ジンは居心地悪気にユリの凝視から目をそらした。
竹本に泊まってからのんびり過ごしていた4日ほど、ジンは渡と正々堂々と同じ屋根の下にいられることで浮かれていた。躁状態の悪魔など、あまりカッコがつくものではない。ニヒルに眉間に皺を寄せて口の隅で笑いながら、常に悪い企みを巡らせていなければ悪魔という看板を掲げる以上はひどく納まりが悪い感じがする。
「毎晩、いったい何をしていたんだ?」
「そうさね、何をしてたと言うほどのものでもないさね・・・。」
実は毎晩、『富士の間』をこっそりと抜け出して(誰もその気配を知ることはない。唯一、ジンをも畏れさす直勘の持ち主、ユリは渡から隔てられた離れで休んでいるのだから。それをいいことに)ジンは飽かず、渡の寝顔を眺めていたと知ったら渡はいったいどう思ったであろうか。ユリに至っては怒り狂うことは必然だ。
ユリの仏頂面はその辺を何気に察したのかもしれない。
「ナマケモノめ。昨夜はナニ、してたんだ、アクマ。」
「ほら、そうやって呼ぶから、香奈恵ちゃんまで俺をそう呼ぶようになったんさね。」
「身体からにじみ出す、悪魔の正体がおのずと知れたのかもしれぬの。」
「トラちゃんまでそんなこというんかい。」
「もうすっかり、お前のニック・ネームだからな。感謝しろ!」
ガンタはそういうと国道の路側帯にマイクロを停めた。小学校まではいくらの距離もない。どんだけゆっくり走らせてもすぐに着いてしまうのだ。
「やっぱり僕ら、学校に行かなきゃダメ?」渡が聞く。
「取りあえず、午後まで大人しくしていろ。」ガンタはサイドブレーキを引いた。
「もう遅刻だけど、それは仕方がない。普通の子供らしくしてるんだ。」
「つまらん。」ユリが背もたれに顔を埋める。「カナエが心配なんだ。」
「それは俺らに任せてさ。」ジンの軽い請負に目だけで睨んだ。
「キノウだ。カナエは本当に外出したのか、アクマ。」
昨日の昼間のささやかな冒険の後、己に寄せられる渡の期待と自分にまったく期待していないユリの蔑む視線に一念発起したジンは昨夜、肉の衣から抜け出て、1人近隣を徘徊してみた。勿論、御堂山を中心とするエリアの探索だ。
御堂山にあった幾つかの歪んだ空間を片端から探ってみたものの、渡の大々叔母の死体を見つける事はジンにもできなかった。見つかったのは、古い埋葬の歴史が積み重なる幾つかの沢。沢沿いの洞窟の中には風葬の後もあった。ここが汚れの地、埋葬の地として使われていたのは確かなことだということがわかっただけだ。
それらの空間は確かに奇妙な捩じれ方をしていた。悪魔にも心地はけして良くない。
その事は、埋葬が色んな意味合いを兼ねていたことを現している。つまり、姥捨て山であり、赤子の間引きであったりと。障害のあった子供や見限られた病人を生きたまま置き去りにして、村の共同体から排除してきたという重い歴史。
いずれも焼き付いた古い記憶は日々にさらされ沢水に洗われ既に風化しつつあった。新しくても、せいぜい明治後期・・・近代になって使われた形跡はなかった。
「戻って来たのは、そうさね・・・4時前、ぐらいさ。その時にあの娘が勝手口から入って行くのを俺は見たわけさね。」
「カナエの様子はどうだったんだ?カギは自分で開けたのか?」
「開いてたみたいさね。それに見たところ、目を開けて普通に歩いていたけどね。裸足かどうかは気が付かなかったさ。」
「なんで気がつかないんだ? そんな時間に香奈恵が、おかしいだろ普通。」
「あの子には、興味ないもんね。」ジンはペロリと長い舌を出す。そしてチラリと渡を見た。渡はちょっと動揺する。「俺っちが興味あんのは・・・」
「ワタルを見るな、アクマ!。」ユリが渡の服を後ろに引いた。
「ワタルもコイツに話しかけるな、コイツに頭から食われるぞ。」
「食わないって、ケチだなぁ。」
「すると、香奈恵どのが夜中にどこかに行ったのは本当のことらしいの。」トラが話を進める。『ドラコどのは何か、目撃していないのかの』(ドラコはガンちゃんと一緒にぐっすり寝てたのにゃ)役に立たないな~とガンタは密かに呟いた。
「わしはあの別荘跡地が怪しいように思うの。」
「香奈恵の夢を意味のある話と思うんだな。」ガンタは腕組みをした。「夢遊病中の記憶が反影しているってわけか。」
「行きたい!行ってはダメなのか、ガンタ!ワタルはダメだが、ユリとトラの保護者はガンタだ、どうにかして休ませてくれ!」
渡がズルイッと呻き、ユリが身を乗り出す。
「駄目。」ガンタはにべもない。
「まずは、俺らが偵察に行った後だ。タトラも面倒だろうが、ユリと渡の護衛をしていてくれ。」




香奈恵は布団に横になったものの、眠ることはできなかった。
時計を見ると9時、少し前。渡達は学校に着いただろうか。
休みたいとごねていたので3人とも遅刻だ。
自分だけ、こうして学校をズル休みしてしまっていいのだろうか。
さっきは本当に気分が悪かったのだが、今はそれほどでもない。
気が付くと半身を起こして足を見ていた。朝、こっそりと洗面所で足の裏の泥を落とした時には、目に見える事実をとても受け入れることができなかった。
これも、もしかして夢だったりして。
靴下を脱ぐ。夢じゃなかった。やはりそこにはキズだらけ、痣だらけの足がある。
ミミズ腫れの中には赤く腫れているものもある。今朝、こっそりと下の救急箱から持って来た消毒薬の匂いが微かにする。血が出るほど、深い傷がないのがかえって不可解な気がした。特に細かいキズが多い足の裏を見ながらぼんやりとしていた。
意識は昨夜見た夢の事に漠然と戻って行く。
階下が騒がしい。その中に香奈恵は自分の父親と母親の声を聞き分けた。
オヤジ、誠二が来たのだ。香奈恵は跳ね起きると襖を開け、廊下を進んだ。父親の声は大きくて、簡単に聞き取ることができる。
「そりゃ、俺だって疑いたくはないよ、だけどね・・・!」
「人聞きの悪いこといわないでよ!。いくらなんだってやめてよね、私だって怒るわよ!こんだけ人を馬鹿にしといて、よくそんなこと言えるじゃないの!こんなことになったのは、私のせいじゃないでしょ! 真由美さんを送り込んで来たのは、あんたなのよ! 責任なんてこっちには、ないでしょ!」
争う父と母。誠二と寿美恵。
かつて何度もこうやって二人の言い争いを、2階から聞いたことがあったような。それはもう、遥か昔、まだ二人が離婚していなかった時の幼い記憶だろうか。
「悪かったよ、君には内緒にした、ああ、確かにそれはこっちが悪かったよ。だけどさ、君は知っていたそうじゃないか? 真由美が来てることを、飯田君から聞いていたんだろ? 君のことだ、お腹の子供のことだって、気が付いていたんじゃないか?」

「あたしがどうすれば良かったっていうの? 元旦那の子供を孕んでくれてありがとうとでも、真由美さんに言えっていうの! いったい、何しに来たんだって正直に聞いてやれば良かったの?! だいたい、あきれちゃったわよ、あなたそれでも父親なの? 真由美さんのことを香奈恵だけに教えてたってこと、よくヌケヌケと言えたわね! あたしが怒ってるのはね、あんたが香奈恵を巻き込んだからよ! 香奈恵が板挟みになって苦しむとは思わなかったの? あの子、今、受験生なのよ!」
「寿美ちゃん、わかるけど、寿美ちゃん、落ち着いて。」
綾子がしきりに寿美恵をなだめるが、寿美恵はやめなかった。
「ええ、そうよ、あの人が妊娠していることぐらい一目見れば、すぐにわかったわよ。私はあんたの子供を2人も産んでるんだからね。当然、あなたの子供なんだろうぐらい思うのは常識でしょ!それのどこが悪いの? いったい、自分をどんだけ色男だと思ってるのよ!そりゃ、愉快には思えないけどね、もう私はあんたなんかなんとも思ってないのよ!馬鹿じゃないの?!」
寿美恵の声もどんどん大きくなる。
「なあ、寿美恵。君の気持ちを考えなかったことは謝る。香奈恵を巻き込んだ事もわるかった、短慮だったよ。申し訳ない。だから、なあ。」
寿美恵のご機嫌を取るように誠二の声は低く一見、穏やかになる。
「だけどなあ、真由美を恨むのはお門違いだぞ。俺たちの結婚生活は真由美がいてもいなくても破綻していたんだ。」哀願の声はビロードのように滑らかに囁きまでに潜められた。寿美恵は返事もしない。
「なあ、寿美恵、頼む。正直に話してくれないか、真由美をどこにやったんだ?」
それは寿美恵の一番、嫌いだった誠二の話し方。
今となっては、その声と話し方ほど寿美恵をカッとさせるものはない。かつてはこの声を世界中で一番ステキだと思っていたことがあるから尚更に。
「言いがかりは、やめてよ!今更、私が何をするっていうのっ!」
寿美恵の怒号に瞬間、香奈恵はすくみ上がった。
厨房から祖母も間に入って、二人をなだめ始めたようだ。
怒髪天を付いた寿美恵にも、誠二の非難の矛先は納まらない。
香奈恵は身を低くして階段の上から、階下を覗き込んだ。
どっちかと言うと身だしなみのキチンとした男であった父親だったのだが、久しぶりに見る父親は寝癖の付いた髪で急いで着替えたのか作業着も着乱れた感じだ。
誠二は手に丸めた紙切れを握っており、寿美恵はそんな男を正面から冷ややかに見つめている。顔に朱が登り、その顔つきから激高しているのを寿美恵が必死で押さえているのがわかる。綾子に背中から肩を押さえられているが、腕は誠二を殴らないで済ます為なのか胸で組み、それでも足りずに身体に巻き付けていた。
「とにかく、この手紙は警察に提出する!」誠二の手に握られたモノ。
「君は、この手紙を読んだはずだ!」
「読んでないわよ!知らないわよ、そんなもの!」
手紙?香奈恵は思わず、階段を降りて行った。まさか?。
「じゃあ、なんでこの手紙が捨ててあったんだ?!」
父親が持っているのは香奈恵が昨日、破って捨てた手紙だった?
そんなはずは・・・ない。
「香奈恵ちゃん!」綾子が香奈恵に気が付く。「こっちに来ちゃ駄目よ。」
「あんた達もやめんさい、子供の前だろが。」祖母が誠二の腕を強く引く。
こちらを向いた父の顔は顔色が悪く目が充血し無精髭がでている。やつれて汗が光り、口の隅に泡が浮いている。他人のような始めて見る、父親の顔だった。
「その手紙・・・」手を差し伸べた香奈恵の手を父は振り払った。
「ダメだ、これは、証拠だ。」
その仕草にショックも感じないほど、香奈恵は必死だった。
「どこにあったの?」
「香奈恵?」寿美恵が腕を解いて、こちらに身を乗り出す。心配そうな母の顔、それを横目で見ながら香奈恵はこれも夢の続きのように感じていた。だってその手紙は破いて、ガムテープで巻いて捨てたはずだ。さっきもう、ゴミ車が来て回収されたはずなのだ。ゴミ回収車が流すいつものメロディを香奈恵は先ほど、確かに聞いたのだ。
「それ、どこにあったの?」香奈恵は祖母に抱きとられる。
「ねえっ、どこにあったのよ!」誠二は香奈恵に射すくめられ、目を反らした。
「香奈恵ちゃん?」綾子も香奈恵をマジマジと見つめる。
「それ、私が捨てたの。」だからここに、あるはずはない。
「香奈恵ちゃん、嘘ついちゃ駄目だよ。」祖母が声を上げる。
「嘘じゃない!私が昨日、読んで捨てたの!だって、ママに、ママに読ませたくなかったからっ!」
「香奈恵・・・!」寿美恵の声は悲鳴に近い。
誠二は手の中の手紙を香奈恵から遠ざけながら、一瞬迷う様子を見せる。
「これは・・・これは飯田さんが・・今朝、脱衣所のゴミ箱で見つけたんだ。」
「嘘!」香奈恵は叫ぶ。「そんなはず、ないっ!」
「香奈恵!」寿美恵が横から香奈恵を抱き取った。
寿美恵が泣いているのがわかった。
「飯田美咲は、嘘ついてんのよ!」香奈恵は誠二の背中に尚も必死で叫ぶ。
「あの人は真由美さんが嫌いなの!大嫌いなのよ、パパ!怪しいのはあの人よ!だって、その手紙をあの人が見つけられるはずないんだもの!そんなの偽物よ!」
「いいのよ。いいのよ、香奈恵。」涙ぐむ寿美恵の声はやさしかった。
「ママは大丈夫。ママは何もやってないんだから。平気よ、平気だから香奈恵。」
「そうだよ、香奈恵ちゃん。お父さんもすぐに間違いに気が付くからさ、落ち着くんだよ。」祖母の声はおろおろと揺れていた。
綾子はなすすべもなく、そんな3人を見つめていた。寿美恵の肩に顔を埋めた香奈恵の青ざめた顔がどんなに幼く見えることか。まだ17歳でしかないのだ。
その実の父親の誠二は巡査を捜しに、警察にあの手紙を届け出る為に行くのだ。香奈恵の実の母、かつての妻である寿美恵にあらぬ疑いをかけることになろうとも。誠二が必死なのも痛いほど、よくわかる。彼の妻は妊娠5ヶ月なのだ。夏の暑さは遠のき始め、夜に戸外は思わぬほど冷え込むようになって来ている。
行方不明の真由美と腹の子供の為に彼は出来うる限りの手を打つしかないのだ。
せめて浩介がいてくれたら、と綾子は悔やんだ。大人しくぼおっとしていると日頃言われる夫だが、実は特技がある。こういう頭に血が登ってしまった相手をなだめるのが実にうまい。独特のマイペースな雰囲気が相手に理性を取り戻す余裕を与えるのだろうと、常に感心していた。しかしその尊敬する夫も、若い頃に鍛えた身体でいざとなったら強権発動の祖父も、気は短いが曲がったことの大嫌いな板長のセイさんも今は捜索隊に借り出されている。
鈴木誠二を止められる男手はここにはなかった。
田中さんや近所から手伝いに来た主婦達がこちらを息を潜めて伺っていた。
この話はすぐに村中に駆け巡るだろう。
ああ、真由美さんはいったいどこへ消えたんだろう。
なぜ、ここにいないのか。
自分の父親である男が玄関から逃げるように出て行くのを、香奈恵もまた無力感と共に見送った。父の背中は固くまっすぐで、手にはあの手紙が強く握られたままだ。あれは、香奈恵が破り捨てた手紙とまったく同じものなのだろうか。
それとも、破って捨てたと思った記憶が間違っていたのか?。それこそが、夢?。
見知らぬ数人の若者が躊躇いがちにこちらに視線を送った後でわらわらと誠二に付いて出ていく。父の教え子の学生達に違いなかった。
母親の震える背中ごしに、香奈恵は戦っていた。
例え、無力感に打ちのめされようとも。
香奈恵の中には怒りが燃え上がり始めている。
その目は飯田美咲を捜し求め、見つけられないままに旅館の廊下を彷徨っていった。

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