綾子は気になって仕方がなかった。
本家のお屋敷跡へと出て行った男。小さい娘・・確かユリと言った・・を連れて遠ざかる後ろ姿を今もつい身を乗り出して見送ってしまった。それも、男に気付かれぬように隠れるように。それで母に見とがめられてしまった。
綾子は大きなお腹を抱えて帳場のイスにふうふうと腰を下ろした。
「みんさい。そげなお腹で身イ乗り出したりするから。」母はそれでも熱い番茶を入れてくれた。「もう産み月なんだから。あげな圧迫するもんでなか。」
大きなお腹が嫌でも目立ち始めた先々月から、帳場へは出なくてもいいと夫からも言われていた。しかし、小さいとはいえども旅籠の老舗旅館の若女将である。一応。と、綾子はお腹をさすりつつお茶を飲んだ。
なんでこんなに気になるんだろう。挨拶は母である女将が行った。綾子は男が手回り荷物を持って母の後を付いて部屋に上がるのを板場からチラリと見送っただけだ。
最初は幼い娘と二人旅であるとただ一人の仲居(これは義理の妹であった。)から聞いて興味を覚えただけだった。
娘が思ったよりも小さかったのも胸を突かれた。自分も母になるのを指折り待っている身であったから。妹によると「奥さんは亡くなったらしいよ。」そんな報告も一因かもしれない。「ちょっと良い男じゃない?」
色々あって離婚調停中である妹は興味津々で、その後も続々と報告をしてくれる。義理の関係であるので実際は綾子より3つ上でに当たり、既に三十路に片足を突っ込んでる妹はとても子供が2人もいるようには見えない。浮気者の旦那とキチンとした暁には実家に預けている子供を引き取り、兄が婿入りしたこの家で働くことが既に決まっている。まさか早くも後添えに入るつもりなのかと綾子が肝が冷える程の熱中ぶりだった。
まるでその為の身上調査のようである。
年齢、家族構成、出た大学や出身地は勿論のこと。
「娘さんは、障害があるみたいね。」とか。
「38で会社を興したらしい。」とか。
「この辺に住む家を探してるみたい。」などと。
よくも恥ずかしげもなくと言うぐらい、毎日聞き込んでくる。困りながらも、生来の育ちの良さから丁寧に説明する男の面長な色白の顔が浮かんでくる。綾子は男に失礼なのではないかとやんわりと諌めたが、妹にはさして影響は及ばなかったようだ。
今度は綾子ではなく、実の兄である夫や父や祖父を相手にしきりに話題にし出した。
本家の屋敷跡と呼ばれる裏山の中腹の広い土地に男が興味を抱いてるらしいと。
父は持て余していた裏手の荒れ地が金に換わるかもと身を乗り出したが、祖父は難色を示した。曰く「あそこは鬼門じゃから。」
「しかし、父さん。」父は渋る親を説得に掛る。
「あそこはいつまでも売れんし、税金もかかるし。父さんだって今の竹本の内情は知ってるやろ?あそこが売れたら、露天を新しくできる。」
祖父は容易に首を振らない。婿の身の夫までいつの間にやら義父にちゃっかり味方をしている。
「そうですよ。設備を新しくしたら、観光協会からもっとお客を廻してもらえますよ。」
「団体客も扱えるし。」
近隣は旅籠町であったが戦後、立ち行かなくなった旅館も多い。
それはわかると祖父はモゴモゴと歯切れが悪い。
「本家跡って、あのお化け屋敷?」綾子はつい口を挟む。
父と母は「綾子!」と声を揃える。慌てて泊まり客に聞こえたらどうすると言う仕草。
「だってほんとのことじゃない。」と綾子。子供の頃、友達と徒党を組んで押しかけては
逃げて帰った記憶が蘇る。かといって、何が見えたわけでもなかったが。あれは従姉妹や再従兄弟が揃うと行われる真夏の恒例行事だった。
「今は本家は松本に移っとるがの。」祖父は重い口を開く。
「お前の大伯母さんが亡くなっとる。」
「何にしても、もう戦前の話でしょう?」能天気な夫。
「それに、まだほんとにあそこを買ってくれるかはわからないんでしょ?」
私はまとめに入る。
「今日、見に行くって。」妹は得意そうに教えてくれた。
そして、今。
なんで私はあの男が気になるのか。なんだか、男を見ると落ち着かない気持ちになる。
大きなお腹をして。夫のある身で。これは恋ではない。
どちらかと言うと。
不安?綾子はため息を付いた。
うまい話を持って来た、詐欺師?若くして妻に先立たれた運のない男。その不幸に伝染するような感じ?どれも違う。
こんな気持ちを抱いてるのは自分だけらしかった。
驚くほど家族は・・旅館竹本の人々はたった一人の逗留客である男に心を許してしまったらしい。口を利かないという、幼い子供を抱えてる哀れさか。その娘は整った顔立ちのお人形のようにキレイな子だ。それも不憫と評判である。
しかし。と、お腹の子が中からポンと蹴った。綾子は顔をしかめて立ち上がる。
子供もなんだか落ち着かない。予定日はまだ2週間ほど先だ。町中の病院の予約は済んでいる。いつ何があってもいいように若夫婦の部屋には入院セットの入った大きなかばんも完備している。
綾子はお腹を擦りながら話しかける。子供をあやすようになだめながら、勝手口に向った。
「ちょっとその辺、散歩してくる。」
「ぽっくりなんか履くんじゃないよ。」すかさず母が後ろ姿に声をかけると、部屋を片づけに行く妹の後を追って二階の階段に消えた。
もうすぐ、夕食の膳の時間である。
外に出ると、裏山の空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。
何も、こんな時間に。午後から、見に行かなくてもいいじゃない。もう、黄昏だ。
逢う魔が時じゃない。そう思うと身震いが出た。
あそこホントにお化けが出るのかしら?
噂によると若くして死んだ大叔母の霊が出るとか。
親戚なんだけど、お化けはやっぱり怖いわ。
山の上に宵の明星が瞬いている。まだ輝かない白い半月は中空に所在なく浮いている。
その時、ある予感がして綾子は後ろを振り返った。国道に面してる旅館の表を通るトラックを避けながら。
国道の向こう、草むらの中の一本道の先に人影が現れた。
小さな人影を従えている。
竹本の客にまちがいなかった。
なんの気なしに国道を渡った。車は多いが切れ目は無数にある。カーブをよく見て渡る。子供の頃から、渡り慣れているのだ。コツを掴めば容易かった。
思えば。まだ、綾子はこの客とまともに顔を合わせてない。
幼い子供の方とは1度だけ投宿した次の朝に偶然洗面所で顔を合わせ、寝癖の付いた髪を鋤いてやったことがあった。母親がいないからであろうか。その時、ユリと言う子供は不思議そうに綾子の腹に興味を示した。綾子は己の膨らんだお腹の中にいる赤ん坊のことを簡単に説明してやった。するとユリは綾子の目を見上げて、本当に可愛い笑顔を浮かべた。おずおずとしたその手を導かれるるままに、ユリは綾子の腹に耳を押し当てたのである。
そんな子供の父親に未だに会ってないことの方がおかしいのだ。
まして祖父が本家から押し付けられたあの土地を買ってくれると言うのだ。もしも、そこに住むことになるのだとしたら、キチンとした挨拶の一つもした方がいいとその時綾子は軽い気持ちで思ったのだった。
間接的に散々聞かされた噂の主にも勿論、興味はふくれあがっている。
しかし、渡る時に小走りになり息切れがした為そこで待つことにする。
綾子は営業用の笑みを浮かべながら、近づいてくる大小の影をジッと見つめた。
その刹那。錯覚だろうか?。黒い人影がやけに黒く、蒼い鬼火に包まれているような気がした。目をこらす。夕暮れに染まる山肌を背景に暗い人影が近づいて来るだけだ。
突然、眩暈とともに背筋が震えた。
綾子は、落ち着かない思いに捕らわれる。漠然とした恐怖。自分でも説明できない。
このまま、踵を返して帰った方がいいのではないか?
でも、子供は私に気が付いたようだ。手を振ってる。反射的に、機械的に手を振りながら綾子は自分の感覚を持て余した。男が近づいてくる。鼓動が激しくなる。何故か、冷たい汗が額に浮いてきた。
子供がこちらに走り出した。男は遠くからこっちを認める。端正な顔が、いやに。
なんだか。こちらに迫るように感じられる。
汗はのど元を伝う。男の目が。目が。蒼い。綾子は再び悪寒に震えた。蒼い目が光る。
この人、怖い。なんだか、違う。他の人と。男が燃え上がるように見えた。蒼い炎に包まれて。歩み寄る。嫌。怖い。来ないで。
綾子は無意識に足を引いた。子供が甲高い声を発したのがわかったが、綾子は身を返した。あえぐように足を運ぶ。腹の子が暴れている。痛い。腹を押えた。
けたたましいクラクションが鳴り響き、綾子の視界は真っ暗になった。
急ブレーキの車が倒れる綾子の腹に突っ込んで行った。
「あぶない!」アギュは無意識に動いていた。気が付くと車は大きくカーブを切って反対車線に止まっていた。奇跡的に対向車はそのギリギリで止まっている。車内の運転手が目を白黒させている。確かに一瞬、はね飛ばされたはずの妊婦は道の端に移っていた。
男は綾子の体をそっと抱きあげようとしたが思い直した。動かさない方がいい。
綾子は気を失っていた。
急ブレーキに驚いた女将が飛び出して来た。「綾子!」
隣近所からもチラホラと人びと。
「救急車を呼んで下さい。」アギュは緊迫した声を出す。
「あー!」ユリが追いつくとしきりに道路を指さす。
道路の上に水が流れていた。血が混じっている。
水は綾子の足の間を濡らしていた。
ズックが脱げた靴下だけの足先が赤く染まっていく。
「あー!」子供の悲しげな叫びが響く。
奥へ向けた女将の慌ただしい悲鳴に板場から綾子の夫が走って来る。
「診療所へ!その方が近い!」
綾子は3軒先の町営の診療所に運びこまれた。
「先生、破水した!」
おっとりと出てきた老医師は綾子の夫の悲鳴に、あわてて診察室に引っ込み薄い手袋を探した。
「偉いこっちゃ!救急は?」
「今、呼んどります!」外から竹本の祖父も怒鳴り返す。
わしは専門外だが取り上げたことはあるぞと、医師はぶつぶつつぶやきながらのぞき込んで絶句する。
「頭が出とる!こりゃ、産まれてしまうぞ。」」
「市から30分はかかる!ま、間に合わん?」
「ここで産むしかないかもしれん。」青ざめる。
「先生、お願いします。」女将と夫、父が祖父が妹が先生を取り囲む。
医師の指示で看護婦姿の老女が奥へ駆け出す。慌ただしい声で自分の娘を呼んでいる。
娘も看護婦で市立病院勤務だったが今日は非番だった。
「何をすればいいですか?」
「なんか手伝えることは?」
口々に叫ぶ身内に、落ち着きを取り戻した老医師が告げる。
「男はみんな、外へ出ちょれ。」
真っ青な顔の綾子が診察室のさらに奥に運び込まれ、肉親達も支え合いながら付いていった。邪魔だと言われた綾子の夫と父と祖父は所在なく診察室のベッドに腰を下ろした。外では駐在が車の運転手に話を聞いている。当たったわけでなく、車に驚いて倒れたらしいと言うのが大方の目撃者の意見だった。申し訳ないとひたすら頭を下げていた初老の運転手は最初は首を傾げていたがそのうち自分の記憶を塗り替えることにする。確かにはねたと思ったのだが、違うに越したことはない。
その他の隣近所の人々は遠巻きに声を潜めて、心配顔で道路の果てを見つめている。国道が家並みを外れて山肌を縫って木々に吸い込まれて行く先。救急車の音もまだない。
狭い待合室には青年と少女だけが残された。アギュはユリの様子を痛ましそうに見た。座ることも忘れたように、ベンチに腰掛けた彼の上着の袖を固く握りしめている。
「かわいそうに。」少女が訴えるような目で見上げる。「あー」
アギュは首を振る。「ダメです。ワタシ達はこれ以上は干渉してはいけないんです。」
彼は慌ただしい奥に目を向けた。声を潜める。
「お腹のコドモは死んでいます。」ユリと呼ばれる少女は納得しなかった。ぐいぐいと引っ張る。しかし、アギュの顔は暗いままだ。
「ハハオヤだけ助けるのがやっとでした。」車は確かに綾子の腹に当たったのだった。
やっと、ユリは涙の盛り上がった目を青年の膝に伏せた。
声を殺してるが口の震えが伝わる。手はまだ裾を固く握っている。
彼はその手を外したりはしなかった。静かに手を挙げるとすまないと言う精一杯の気持ちをこめて、その髪を静かに撫でた。
本家のお屋敷跡へと出て行った男。小さい娘・・確かユリと言った・・を連れて遠ざかる後ろ姿を今もつい身を乗り出して見送ってしまった。それも、男に気付かれぬように隠れるように。それで母に見とがめられてしまった。
綾子は大きなお腹を抱えて帳場のイスにふうふうと腰を下ろした。
「みんさい。そげなお腹で身イ乗り出したりするから。」母はそれでも熱い番茶を入れてくれた。「もう産み月なんだから。あげな圧迫するもんでなか。」
大きなお腹が嫌でも目立ち始めた先々月から、帳場へは出なくてもいいと夫からも言われていた。しかし、小さいとはいえども旅籠の老舗旅館の若女将である。一応。と、綾子はお腹をさすりつつお茶を飲んだ。
なんでこんなに気になるんだろう。挨拶は母である女将が行った。綾子は男が手回り荷物を持って母の後を付いて部屋に上がるのを板場からチラリと見送っただけだ。
最初は幼い娘と二人旅であるとただ一人の仲居(これは義理の妹であった。)から聞いて興味を覚えただけだった。
娘が思ったよりも小さかったのも胸を突かれた。自分も母になるのを指折り待っている身であったから。妹によると「奥さんは亡くなったらしいよ。」そんな報告も一因かもしれない。「ちょっと良い男じゃない?」
色々あって離婚調停中である妹は興味津々で、その後も続々と報告をしてくれる。義理の関係であるので実際は綾子より3つ上でに当たり、既に三十路に片足を突っ込んでる妹はとても子供が2人もいるようには見えない。浮気者の旦那とキチンとした暁には実家に預けている子供を引き取り、兄が婿入りしたこの家で働くことが既に決まっている。まさか早くも後添えに入るつもりなのかと綾子が肝が冷える程の熱中ぶりだった。
まるでその為の身上調査のようである。
年齢、家族構成、出た大学や出身地は勿論のこと。
「娘さんは、障害があるみたいね。」とか。
「38で会社を興したらしい。」とか。
「この辺に住む家を探してるみたい。」などと。
よくも恥ずかしげもなくと言うぐらい、毎日聞き込んでくる。困りながらも、生来の育ちの良さから丁寧に説明する男の面長な色白の顔が浮かんでくる。綾子は男に失礼なのではないかとやんわりと諌めたが、妹にはさして影響は及ばなかったようだ。
今度は綾子ではなく、実の兄である夫や父や祖父を相手にしきりに話題にし出した。
本家の屋敷跡と呼ばれる裏山の中腹の広い土地に男が興味を抱いてるらしいと。
父は持て余していた裏手の荒れ地が金に換わるかもと身を乗り出したが、祖父は難色を示した。曰く「あそこは鬼門じゃから。」
「しかし、父さん。」父は渋る親を説得に掛る。
「あそこはいつまでも売れんし、税金もかかるし。父さんだって今の竹本の内情は知ってるやろ?あそこが売れたら、露天を新しくできる。」
祖父は容易に首を振らない。婿の身の夫までいつの間にやら義父にちゃっかり味方をしている。
「そうですよ。設備を新しくしたら、観光協会からもっとお客を廻してもらえますよ。」
「団体客も扱えるし。」
近隣は旅籠町であったが戦後、立ち行かなくなった旅館も多い。
それはわかると祖父はモゴモゴと歯切れが悪い。
「本家跡って、あのお化け屋敷?」綾子はつい口を挟む。
父と母は「綾子!」と声を揃える。慌てて泊まり客に聞こえたらどうすると言う仕草。
「だってほんとのことじゃない。」と綾子。子供の頃、友達と徒党を組んで押しかけては
逃げて帰った記憶が蘇る。かといって、何が見えたわけでもなかったが。あれは従姉妹や再従兄弟が揃うと行われる真夏の恒例行事だった。
「今は本家は松本に移っとるがの。」祖父は重い口を開く。
「お前の大伯母さんが亡くなっとる。」
「何にしても、もう戦前の話でしょう?」能天気な夫。
「それに、まだほんとにあそこを買ってくれるかはわからないんでしょ?」
私はまとめに入る。
「今日、見に行くって。」妹は得意そうに教えてくれた。
そして、今。
なんで私はあの男が気になるのか。なんだか、男を見ると落ち着かない気持ちになる。
大きなお腹をして。夫のある身で。これは恋ではない。
どちらかと言うと。
不安?綾子はため息を付いた。
うまい話を持って来た、詐欺師?若くして妻に先立たれた運のない男。その不幸に伝染するような感じ?どれも違う。
こんな気持ちを抱いてるのは自分だけらしかった。
驚くほど家族は・・旅館竹本の人々はたった一人の逗留客である男に心を許してしまったらしい。口を利かないという、幼い子供を抱えてる哀れさか。その娘は整った顔立ちのお人形のようにキレイな子だ。それも不憫と評判である。
しかし。と、お腹の子が中からポンと蹴った。綾子は顔をしかめて立ち上がる。
子供もなんだか落ち着かない。予定日はまだ2週間ほど先だ。町中の病院の予約は済んでいる。いつ何があってもいいように若夫婦の部屋には入院セットの入った大きなかばんも完備している。
綾子はお腹を擦りながら話しかける。子供をあやすようになだめながら、勝手口に向った。
「ちょっとその辺、散歩してくる。」
「ぽっくりなんか履くんじゃないよ。」すかさず母が後ろ姿に声をかけると、部屋を片づけに行く妹の後を追って二階の階段に消えた。
もうすぐ、夕食の膳の時間である。
外に出ると、裏山の空は真っ赤な夕焼けに染まっていた。
何も、こんな時間に。午後から、見に行かなくてもいいじゃない。もう、黄昏だ。
逢う魔が時じゃない。そう思うと身震いが出た。
あそこホントにお化けが出るのかしら?
噂によると若くして死んだ大叔母の霊が出るとか。
親戚なんだけど、お化けはやっぱり怖いわ。
山の上に宵の明星が瞬いている。まだ輝かない白い半月は中空に所在なく浮いている。
その時、ある予感がして綾子は後ろを振り返った。国道に面してる旅館の表を通るトラックを避けながら。
国道の向こう、草むらの中の一本道の先に人影が現れた。
小さな人影を従えている。
竹本の客にまちがいなかった。
なんの気なしに国道を渡った。車は多いが切れ目は無数にある。カーブをよく見て渡る。子供の頃から、渡り慣れているのだ。コツを掴めば容易かった。
思えば。まだ、綾子はこの客とまともに顔を合わせてない。
幼い子供の方とは1度だけ投宿した次の朝に偶然洗面所で顔を合わせ、寝癖の付いた髪を鋤いてやったことがあった。母親がいないからであろうか。その時、ユリと言う子供は不思議そうに綾子の腹に興味を示した。綾子は己の膨らんだお腹の中にいる赤ん坊のことを簡単に説明してやった。するとユリは綾子の目を見上げて、本当に可愛い笑顔を浮かべた。おずおずとしたその手を導かれるるままに、ユリは綾子の腹に耳を押し当てたのである。
そんな子供の父親に未だに会ってないことの方がおかしいのだ。
まして祖父が本家から押し付けられたあの土地を買ってくれると言うのだ。もしも、そこに住むことになるのだとしたら、キチンとした挨拶の一つもした方がいいとその時綾子は軽い気持ちで思ったのだった。
間接的に散々聞かされた噂の主にも勿論、興味はふくれあがっている。
しかし、渡る時に小走りになり息切れがした為そこで待つことにする。
綾子は営業用の笑みを浮かべながら、近づいてくる大小の影をジッと見つめた。
その刹那。錯覚だろうか?。黒い人影がやけに黒く、蒼い鬼火に包まれているような気がした。目をこらす。夕暮れに染まる山肌を背景に暗い人影が近づいて来るだけだ。
突然、眩暈とともに背筋が震えた。
綾子は、落ち着かない思いに捕らわれる。漠然とした恐怖。自分でも説明できない。
このまま、踵を返して帰った方がいいのではないか?
でも、子供は私に気が付いたようだ。手を振ってる。反射的に、機械的に手を振りながら綾子は自分の感覚を持て余した。男が近づいてくる。鼓動が激しくなる。何故か、冷たい汗が額に浮いてきた。
子供がこちらに走り出した。男は遠くからこっちを認める。端正な顔が、いやに。
なんだか。こちらに迫るように感じられる。
汗はのど元を伝う。男の目が。目が。蒼い。綾子は再び悪寒に震えた。蒼い目が光る。
この人、怖い。なんだか、違う。他の人と。男が燃え上がるように見えた。蒼い炎に包まれて。歩み寄る。嫌。怖い。来ないで。
綾子は無意識に足を引いた。子供が甲高い声を発したのがわかったが、綾子は身を返した。あえぐように足を運ぶ。腹の子が暴れている。痛い。腹を押えた。
けたたましいクラクションが鳴り響き、綾子の視界は真っ暗になった。
急ブレーキの車が倒れる綾子の腹に突っ込んで行った。
「あぶない!」アギュは無意識に動いていた。気が付くと車は大きくカーブを切って反対車線に止まっていた。奇跡的に対向車はそのギリギリで止まっている。車内の運転手が目を白黒させている。確かに一瞬、はね飛ばされたはずの妊婦は道の端に移っていた。
男は綾子の体をそっと抱きあげようとしたが思い直した。動かさない方がいい。
綾子は気を失っていた。
急ブレーキに驚いた女将が飛び出して来た。「綾子!」
隣近所からもチラホラと人びと。
「救急車を呼んで下さい。」アギュは緊迫した声を出す。
「あー!」ユリが追いつくとしきりに道路を指さす。
道路の上に水が流れていた。血が混じっている。
水は綾子の足の間を濡らしていた。
ズックが脱げた靴下だけの足先が赤く染まっていく。
「あー!」子供の悲しげな叫びが響く。
奥へ向けた女将の慌ただしい悲鳴に板場から綾子の夫が走って来る。
「診療所へ!その方が近い!」
綾子は3軒先の町営の診療所に運びこまれた。
「先生、破水した!」
おっとりと出てきた老医師は綾子の夫の悲鳴に、あわてて診察室に引っ込み薄い手袋を探した。
「偉いこっちゃ!救急は?」
「今、呼んどります!」外から竹本の祖父も怒鳴り返す。
わしは専門外だが取り上げたことはあるぞと、医師はぶつぶつつぶやきながらのぞき込んで絶句する。
「頭が出とる!こりゃ、産まれてしまうぞ。」」
「市から30分はかかる!ま、間に合わん?」
「ここで産むしかないかもしれん。」青ざめる。
「先生、お願いします。」女将と夫、父が祖父が妹が先生を取り囲む。
医師の指示で看護婦姿の老女が奥へ駆け出す。慌ただしい声で自分の娘を呼んでいる。
娘も看護婦で市立病院勤務だったが今日は非番だった。
「何をすればいいですか?」
「なんか手伝えることは?」
口々に叫ぶ身内に、落ち着きを取り戻した老医師が告げる。
「男はみんな、外へ出ちょれ。」
真っ青な顔の綾子が診察室のさらに奥に運び込まれ、肉親達も支え合いながら付いていった。邪魔だと言われた綾子の夫と父と祖父は所在なく診察室のベッドに腰を下ろした。外では駐在が車の運転手に話を聞いている。当たったわけでなく、車に驚いて倒れたらしいと言うのが大方の目撃者の意見だった。申し訳ないとひたすら頭を下げていた初老の運転手は最初は首を傾げていたがそのうち自分の記憶を塗り替えることにする。確かにはねたと思ったのだが、違うに越したことはない。
その他の隣近所の人々は遠巻きに声を潜めて、心配顔で道路の果てを見つめている。国道が家並みを外れて山肌を縫って木々に吸い込まれて行く先。救急車の音もまだない。
狭い待合室には青年と少女だけが残された。アギュはユリの様子を痛ましそうに見た。座ることも忘れたように、ベンチに腰掛けた彼の上着の袖を固く握りしめている。
「かわいそうに。」少女が訴えるような目で見上げる。「あー」
アギュは首を振る。「ダメです。ワタシ達はこれ以上は干渉してはいけないんです。」
彼は慌ただしい奥に目を向けた。声を潜める。
「お腹のコドモは死んでいます。」ユリと呼ばれる少女は納得しなかった。ぐいぐいと引っ張る。しかし、アギュの顔は暗いままだ。
「ハハオヤだけ助けるのがやっとでした。」車は確かに綾子の腹に当たったのだった。
やっと、ユリは涙の盛り上がった目を青年の膝に伏せた。
声を殺してるが口の震えが伝わる。手はまだ裾を固く握っている。
彼はその手を外したりはしなかった。静かに手を挙げるとすまないと言う精一杯の気持ちをこめて、その髪を静かに撫でた。