京都市右京区鳴滝泉谷町 西寿寺にて2019年夏
今日は母の命日。
このブログも前回から既に4年。
ずいぶん遠ざかっていましたが、その間、いろんなことがありました。
2018年には母を看取りました。
ショートステイ利用時にノロウイルスに感染、一ヶ月後になんとか復帰するも、
その後のインフルエンザ罹患により肺炎併発、緊急入院した病院では人工呼吸器を付けたまま、
一ヶ月後には、別れの挨拶も出来ないうちに旅立ちました。
単身母の元に帰省し、8年近く介護の生活を送りましたが、悔いは残りました。
人様から、よくやりましたね、とねぎらいの言葉を頂くたび、居た堪れない気持ちに苛まれました。
介護に勝利はない、とは誰かの言葉だったと思いますが、介護を経験したものでなければ、
その苦い思いは理解できないのかも。
母の晩年、見えないものた見えたりすることも多く、時々自分の世界に入ることも増えました。
それでも本人に悲壮感はなく、老人特有の鬱に陥ることもありませんでした。
逆に介護する私は精神的に疲れ果て、時にはきつい言葉を母にぶつけました。
ある深夜、母が突然ベッドの中で歌い出したことがあります。
夢を見ているのか、自分の世界に入っていたのか、思い出に浸っていたのか、
明るく、楽しげに、はっきりと声高々に歌っていた歌は、あの童謡「夕日」。
ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、ぎんぎんぎらぎら日が沈む
連夜寝不足気味だった私はたたき起こされ、何時だと思ってるんや、と激高。
ベッドの足元に置かれていたクッションを枕元に投げつけました。
母はきょとんとして、分かった、とだけ言いました。
その後、私は自分が取った行動に居たたまれなくなりました。
母が亡くなったその年の夏、四国を歩きました。母の供養のための歩き遍路です。
どこの町であったか夕刻、そろそろ足元の影も長くなってきた頃、
細い集落を抜ける道で足を速めていると、
町内放送だったのか、学校の下校を促す放送だったのか、
突然音楽が流れてきました。
ぎんぎんぎらぎら夕日が沈む、ぎんぎんぎらぎら日が沈む
歌詞はありません、メロディーだけ。その曲があの夜を思い出させました。
しばらく泣きながら歩きました。
母は無神論者でした。それでもかって一緒に暮らした相方の位牌を長年大事に守っていました。
お骨は近所のお寺に預かって頂き、位牌には毎日コーヒーを供えていました。
なんでも相方から、亡くなったあとは何もしなくても良い、毎日コーヒーだけ供えてくれ、
と言われたのだとか。お骨は京都の嵯峨野辺りのお寺にでも納骨してくれたら良い、とも。
母が亡くなったあと、私は相方さんのお骨もお寺から引き取り、
母のお骨とともに嵯峨野近くの西寿寺さんに納骨しました。
今でこそ樹木葬と言う言葉は良く耳にしますが、まだあまり知られなかった頃、
母の相方さんの納骨先を探していて偶然見つけたのですが、
母はその時、そこに収めるとは口にせず、その後年月が経過していました。
母が亡くなった後、ご近所の親しい方に報告に上がった際、
自分が亡くなったら、その西寿寺さんに納骨してもらうんだ、と話していたと聞き、
相方さんと母のお骨を西寿寺さんにお願いする事になりました。
今は西寿寺さんの墓地の頂上辺り、御室桜の根元で二人は眠っています。
そこから観る京都の市街は絶景。桜の咲く頃には一度、と思いつつ、
まだ満開の御室桜を目にしたことがありません。
人はいくつの命があるか?とどなたかが話しておられました。
人はその人を想う知人、友人、家族の分だけ命があるのだとか。
だから既に旅だった人を想う人がこの世にいる限り、人は死なないのだそうです。
今日は母の命日。
せめて供養にと思って久しぶりにこのブログをしたためました。
コロナのこの時期で無ければ墓参にも行きたかったのですが。
またいつか御室桜の咲く頃、お参りに行きたいと願っています。
母の好きだったおかき、相方さんの好きだったコーヒーを持って。