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聖大アルベルト司教教会博士  St. Albertus Magnus Ep. D. E.

2017-11-15 07:08:07 | 聖人伝
聖大アルベルト司教教会博士  St. Albertus Magnus Ep. D. E.  記念日 11月15日


 聖トマス・アクイナスや聖ボナヴェントゥーラと共に中世紀神学界一方の権威であり、スコラ哲学の先駆者であった聖大アルベルトは1193年南ドイツ、ラウィンゲンのボルスタット家に呱々の声を挙げた。幼い時から敬虔に生い立ち、青年時代にはイタリアに留学してパドヴァの大学で文学や自然科学を修めた。彼は学業の成績があまり思わしい方ではなかったから、かねがね自分が深く信心していた聖母マリアに祈願をこめた所、聖母がお現れになって「いかにもそなたの望み通り、天主から優れた智慧を求めてつかわそう。しかし死ぬ前には再びそれが取り上げられて、元と同様になることを承知するがよい。」と仰せられたと伝えられている。
 1216年、アルベルトがパドヴァに遊学中のことである。創立されたばかりのドミニコ修道会総長ヨルダン師が同地に来り、彼等学生達を前に一場の講演をしたが、アルベルトは師の完徳に対する燃えるような熱情に悉く感激し、自分も同会に入って修道に専念しようかとの望みを起こした。しかし、修士となっても苦行生活に堪えられず、間もなく脱会せねばならぬようでは、天主に対しても相済まぬ次第と躊躇していたのに、ヨルダン師が彼の顔をじっと凝視しつつ言うには「貴方は一度修道院に入ったら、決して再び世間に帰るようなことはありません。それは私が保証します」との事であったので、その言葉を預言の如く聞いたアルベルトは、ついに心を定め、1223年ドミニコ会に入会届けを出した。
 所がパドヴァに住む彼の伯父がそれを聞きつけて反対したので、アルベルトはドイツに帰りケルン市の修道院で修練を果たし、なお神学の研究を続けて叙階の秘蹟を受け、めでたく司祭の資格を得た。それから彼は自分の住む修道院で若い修士達に神学を教える中、1245年パリ大学教授に招聘されるに至った。当時のパリ大学といえば、全欧州に名だたる学術の中心で、諸国の秀才が雲の如く集まる最高学府であったから、その教授となるのは非常な名誉であったのである。
 さてアルベルトは同大学で哲学神学を講ずる事となったが、その深遠な学識は早くも天下に喧伝され、数多の学生が先を争ってその傘下に馳せ参じた中に後年名を成したあの聖トマス・アクイナスも加わっていた。
 しかしアルベルトがパリの教壇に立ったのは僅か3年に過ぎなかった。というのは上長の命令により再びケルン市の大学に戻りそこの講座を担当せねばならなくなったからである。パリ大学の学生達はいずれもこの識見卓抜の恩師を失うを悲しみ、中にはその学徳を慕うあまり、後を追うてケルン大学に転じた者も幾人かあった。
 信仰は道理に基づかねばならぬ。そう考えたアルベルトは哲学に神学の基礎としての重要性を認め、アリストテレス等の哲学を主として研究し、且つ教授した。また彼の自然科学に関する造詣も、当時としては実に驚くべきものがあったという。後世彼を称して大アルベルトというのは、即ち彼が偉大な人物、偉大な学者、偉大な聖人であったによるのである。教皇ピオ2世の如き、「彼は知り得る限りの事は悉く知っていた」とまでそのうんちくの深さを激賞している。アルベルトの著書は大方哲学及び科学に関するものであるが、その最初の筆に成った「聖母マリアへの讃美」という一書は、彼が天主の御母に対してどれほど優れた信心を有していたかを示す証拠として貴い。なお彼は教壇から学生に学を講ずる外に、説教台から善男善女に聖教を説く事を甚だ好み、その他貧者を憐れんでその救済に努めたり、平和を望んでケルン市民及びその支配者たる大司教間の紛争に二度まで調停者として立ったりしたこともある。
 教皇アレクサンデル4世は1256年、彼をアナニイに招き、教皇庁付き顧問とし、1260年には彼の再三辞退するのを強いてレーゲンスブルクの司教に任命した。謙遜の為詮方なく之を受諾したアルベルトは教区の財産管理は一切信任するに足る部下の手に委ね、自らはその顕職にありながら貧しい生活に甘んじ、一介の司祭の如く説教し、秘蹟を授け、又司祭の信仰生活を振粛すべくその視察のため己の教区内を巡回した。そして二年後司教の大任を解かれん事を教皇に願って許されるや、又もケルン市に帰り、先の通り教授する傍ら、司教の補佐としても大いに力を尽くした。
 その後暫くして、何故とも知らず記憶力の衰えを感じたので、アルベルトは嘗ての聖母の御言葉を思い出し、これは自分の死期の近づいた徴と、善き終わりを遂げる準備を為し、その二年後の1280年、11月15日を一期として安らかな永遠の眠りに就いた。時に80歳を越える高齢であったという事である。
 彼の列福は1622年であったが、列聖は随分遅れ1931年教皇ピオ11世の御代に行われた。

教訓

 主イエズス・キリストは山上の説教の中で「故にかの最も小さな掟の1つを廃し、且つそのまま人に教うる者は天国にて最も小さき者と称えられん。されど之を行い且つ教うる者は、天国にて大いなる者と称えられん」と仰せられたが、アルベルトはこの聖言通り教える所を実践躬行して、あのような大聖人となった。我等も聖人となる事を望むならば先ずわが身を修め、後人に徳化を及ぼすべきである。











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