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3-2-4 周公の統治

2018-07-06 09:29:07 | 世界史
『東洋の古典文明 世界の歴史3』社会思想社、1974年

2 殷より周へ

4 周公の統治

 周の天下をひらいたのは武王であったが、その基礎をきずきあげたのは周公であった。
 そうして従来は、武王ののちに成王が即位し、これを周公がたすけて、政務を摂行(せつこう=摂政)した、とかんがえられてきた。
 その時期は、前十一世紀の後半にあたる(前一〇二〇年代)。
 ところで中国には、世界でもっとも古い二つの古典が伝えられてきた。『書経』(尚書)と『詩経』である。
 このうち『書経』の古い部分は、前十一世紀の末から前十世紀の初めにかけて、書かれたものであった(詩経は前十世紀末~六世紀初め……後述)。
 『書経』は、それぞれの事件にあたって、王が発した命令や布告を、記録係である史官がまとめたものである。
 そうして、もっとも古い部分は、周公と成王に関するところであった。
 それが後世になって、まず周公の前後の部分がつけくわえられ、さらに堯(ぎょう)舜(しゅん)禹(う)より夏(か)殷(いん)周(しゅう)の三代をつらぬく史書として、体系づけられていった(戦国時代)。
 すなわち、文王や武王の部分は、後世(春秋の末、戦国)における増補なのである。
 さて『書経』をみると、周公が摂政としての地位にとどまっていた、とは考えられない、さまざまの疑問に、ゆきあたるのである。
 大反乱がおこされたことからもわかるように、周公に反目した者は、けっしてすくなくなかった。
 その一人に、召公がある。
 これまで召公は、周公の弟とかんがえられていたが、最近の研究によって、召という氏族の長であったことが、明らかとなった。
 もとより召公は、周の王朝には忠誠だったのであって、周公という個人に反目し、対立したのである。
 この二人のあいだを融和しようとするこころみが、初期の『書経』の大きなテーマとなっている。
 一族のなかで、ほんとうに周公に協力したのは、弟の康叔(こうしゅ)であった。
 康叔が「衛」の国を建てて殷の遺民をおさめることになったとき、「王」のことばを『書経』は、つぎのように伝える。
 「孟候よ、わが弟の小子封(ほう=康叔の名)よ。
 さても、なんじのほまれ高き父、文王は、徳をはげみ、罰をおこなうをつつしみ、身よりのない男女をあなどらず、用うべきものを用い、敬(うやま)うべきものを敬い、威(おど)すべきものを威し、民のみちを明らかにした。……」
 ここで周の「王」は、康叔のことを“弟”と呼んでいる。
 しかも、この内容は周公の時代のものであった。「王」というのは、武王ではありえない。
 成王であるとすれば、叔父にあたる康叔を“弟”と呼ぶわけはない。
 「王」を周公とかんがえれば、矛盾はなくなるであろう。
 さて反乱をしずめた後、周公は中原の支配をかためるために、都たる鎬京(こうけい)はあまり西方にかたよりすぎているので、あたらしい都を洛邑(らくゆう)につくった。いまの洛陽である。
 かくて鎬京が、首都として「宗(そう)周」と呼ばれるのに対し、洛邑は第二の都として「成(せい)周」と呼ばれることになる。
 こうして新都の建設がおわると、周公は鎬京にもどり、成王にむかっていった。
 「わたしは子(あなた)に、明君の位をかえしましょう。王よ、みずからの才能が及ばぬように、身をつつしみなさい。
 天が周をして、天下に君臨するように定めた命(めい)は、わたしが継ぎ保って、大いに東国にて、新都をつくる基礎を視察して、民の明君となりましょう」。

 すなわち周公は、本国を支配する地位を成王にかえしたけれども、さらに重要な地とみられた新都は、これを手中におこうとしたのである。

 これが召公との不和の一因であった。
 やがて成王も、洛邑の新都におもむいた。
 ここに百官や諸侯を会して、おごそかに天をまつった。
 かくて成王は、ふたたび鎬京へかえる。そのときのこととして『書経』はしるした。
 「王は、周公にあとを継ぐ(新都を支配する)ことを命じ、それを史官がつげた。
 それは十二月のことであり、周公が文王・武王のうけた天命をたもつことになってから、七年目である」。
 ここでは、周公の即位が前提となっていることを、うかがえるであろう。
 殷の王朝では、実力のある者が立つという長老制をとって、兄弟相続がおこなわれた。
 それが末期におよんで、国力が安定すると、父子相続にかわった。
 周においても、初期の動乱期には、長老制があらわれたとしても、ふしぎではないであろう。
 幼少の天子が即位して、摂政の制度がもちいられることは、この前後の時代には、ほかに例がない。
 やはり周公は即位した。
 それゆえにこそ、弟の管叔(かんしゅく)や蔡叔(さいしゅく)が、反乱にくわわった。
 召公とも反目をかさね、二人のあいだは発火の寸前にまでいたっていた。
 そして『書経』が、まず周公の時代を中心として成立したのは、その即位とふかい関係がある、とみられるであろう。
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